メリル・ストリープが怖い修道女の校長を演じる問題作(75点)
例えば痴漢容疑の男がいたとする。その男が実際に痴漢をやったかどうか疑うより、人々は彼が痴漢を犯したと信じる傾向にある。信じる事は時に疑う事にもなり得るし、疑う事は信じる事にもなり得るのだ。現在、演技面で高い評価を得ている映画『ダウト -あるカトリック学校で-』は、そんな人間の矛盾を滑稽に描く。
1964 年、それはアメリカが変わろうとしていた時、ブロンクスにあるカトリックスクールのカリスマ・フリン牧師は厳し過ぎる学校の風習を時代に沿ったものにしようとしていた。また学校ははじめて黒人の生徒ドナルド・ミラーを1人受け入れた時で、周りに溶け込めない彼をフリン牧師は見守っていた。そんな時、学校で教師として働く修道女のシスター・ジェームズはドナルドを気にかけ過ぎるフリンにその少年への性的虐待の疑いを持ってしまう。そしてシスター・ジェームズはその事を校長シスター・アロイシス・ボーヴィエに相談するが…。
本作の監督を務めるのはブロンクス出身で、特に劇作家として素晴らしい名声を博しているジョン・パトリック・シャンリィ。彼は映画脚本も手掛け、代表作には『生きてこそ』や『コンゴ』があり、1987年の『月の輝く夜に』ではアカデミー賞オリジナル脚本賞を受賞した。本作『ダウト -あるカトリック学校で-』はシャンリィが2005年に手掛けた戯曲『ダウト – 疑いをめぐる寓話』を基に映画化されており、この戯曲はピューリッツァー賞戯曲部門、トニー賞演劇作品賞等を受賞している。
まずシャンリィは『ダウト – 疑いをめぐる寓話』を書くにあたり、イラク戦争から影響を受けたという。彼は理由を作り上げ始まったこの戦争のニュースを見ている時に、「この戦争には根拠がない、宗教と同じではないか」と感じ戯曲の構想を練っていった。
映画『ダウト -あるカトリック学校で-』ではメリル・ストリープ扮する真っ黒い服に身を包む規律がモットーのシスター・アロイシスが証拠がないにも関わらずフィリップ・シーモア・ホフマン扮する皆に好かれるフリン牧師に噛み付く。それはまるでシスター・アロイシスがフリン牧師という男性の存在が気に入らない事に対するイジメで、彼女は彼になかった事をあったと言わせようとする。そんなシスターアロイシスに対し、始めにフリン牧師に対し疑いを持ったエイミー・アダムズ扮するシスター・ジェームズでさえも彼女の態度に呆れ、憤慨する。
またシスター・アロイシスはヴィオラ・デイヴィス扮するドナルドの母ミラー夫人を呼び出し、フリン牧師がドナルドに悪戯したと告げるが、ミラー夫人は例えそれが事実だとしても息子を学校にいさせる事を強く望む。一体何がシスター・アロイシスをそこまでその事に対し執着させるのか。それは彼女自身が弱き人間で、フリン牧師が少年に性的虐待を犯したと信じてしまう疑い深い人間である事を意味する。
シスター・アロイシスは生徒達が恐れて止まない修道女。メリル・ストリープは2006年の『プラダを着た悪魔』で演じた鬼編集長に匹敵するインパクトあるキャラクターを今回演じている。彼女の鬼気迫る演技は見ているだけで楽しめるが、メリル・ストリープのワンマンショーのなってしまっているのではないかと少々感じられる。それがまた返って映画の旨味として機能しているのだが。共演者の中では特にヴィオラ・デイヴィスに注目したい。彼女の出演シーンは他の主要俳優等に比べ短いのだが、寒い冬空の下でのメリル・ストリープを相手に披露する彼女の迫真の演技には鳥肌が立つ。
この映画は教会の実態やある聖職者の少年に対する性的虐待を暴く映画ではない。人間は何故証拠がないものを信じてしまうのだろうという素朴な疑問をフィクションとして描いたもので、シャンリィは作品のアイデアはシンプルながらも心に触れる会話で展開してゆく深いストーリーテリングでわたしたちを魅了する。また、観終わった後に物語について議論を交わす事の出来るのもこの作品の醍醐味だろう。そして教会という厳粛な場が舞台だが、意外にコミカルな作りなのが嬉しい。
(岡本太陽)