監督の感性を活かせなかった責任は誰にあるのか(15点)
シリアスなストーリーでいまだに根強い人気を持つTVアニメ『新造人間キャシャーン』の実写映画化。監督は宇多田ヒカルの旦那さんでもあるフォトグラファーの紀里谷和明。
この映画を見にくるお客さんは、大きく二つに分けられる。まず、かつてのTVアニメのファンで、実写化を心待ちにしている熱烈なお客さん。次に、目を引くデザインのポスターや予告編など、広告媒体を見てなんとなく興味を持ったお客さん。オリジナルのアニメのことなど、露ほども知らない若年層はこちらに含まれよう。
まず前者のお客さん、つまり原作ファンにとってこの実写版は、多くの方がなんとなく感じている悪い予感が悲しいまでに的中してしまったと言える。
オリジナルに忠実に実写化しろなどとは(私を含めたいていの方は)いわないが、それにしても重要な設定をあまりに変えすぎている。たとえば、キャシャーンとなる東鉄也は、原作では汚名を着せられた父親の無念を晴らすため、自ら人間の体を捨て、新造人間となる道を選ぶが、まずそこから違う。映画版では、いかにもマッドサイエンティスト然とした父親が、自分のワガママで嫌がる息子をムリヤリ新造人間に仕立ててしまうのである。ここは作品の根幹にかかわるポイントで、そう簡単に変更して良いものではないはずだ。
それを踏まえ、ストーリーの流れもずいぶんと歪んでいる。ラストには、原作ファンが仰天するトンデモな結末が待っている。また、フレンダーという人気キャラクターの犬ロボが原作には出てくるが、映画版ではその無敵ぶりが「あまりにマンガになってしまう」(監督談)ため、はずされている。だが、そんなことを言っているくせにこの映画のストーリーはどこからみてもマンガそのものだ。SFとしての考証など無視しているような、見た目重視の各種デザインも、見る人が見れば安っぽいと感じるはず。
では、後者のお客さんである一般ライトユーザーにとってはどうか。これも結論から言えば駄目だろう。ストーリーテリングが不親切なので、映画を見た満足が得られにくい。「なんだかイケメンの男の子が妙なコスプレをして、CGのロボットと戦ってたなぁ」程度の感想で終わるのではないか。
普段、あまり映画など見ない人々が、たまに入った映画館でこう言うものを見せられたら、「もう二度と日本映画を見るのはやめよう」となっても不思議ではない。これではアンチ邦画の人々を生産するようなもの。監督や、奥さんの宇多田ヒカルが歌う主題歌など話題性があるためそこそこお客さんは入るだろうが、長期的に見ればマイナスの方が大きいのではないか。
なにしろ作り手の主張が全編クドクドと際限なく垂れ流され、見ていると脳がとけそうだ。背景の音楽はうるさいし、体感上の上映時間は果てしなく長い。いつもニコニコ、笑顔を絶やさぬ温厚なこの私でさえ、本気で途中で出ようかと思ったほどだ。『BR2』に匹敵するトンデモ映画だが、あちらは(別の意味で)笑えるだけまだマシか。
それでも、『CASSHERN/キャシャーン』には誉めるべき部分もある。それは、宇多田ヒカルのプロモーションビデオの好評価を支えた紀里谷監督の感性による美術部分。背景はほとんどCGで、そのデザイン等に彼が深く関与していることは間違いないが、やはり色彩のセンスには、日本人離れした非凡なものが感じられる。この個性あふれる映像美は、高く評価されてよい。
とはいえ、これが監督の言うように「お客さんを楽しませる娯楽映画」であるならば、やはり全体の評価としては低くせざるを得ない。紀里谷氏は、他の優秀な監督の元、美術面で協力するような形で映画製作にかかわったほうが、良いものが出来るのではないだろうかと私は思う。
辛らつな事ばかり書いてしまったが、それはこれほどの才能が結果的に活かされず、この程度の作品で終わってしまったことが、あまりに悲しいゆえだ。
(前田有一)