◆「命のリレー」に感涙するもよし、医学の意義を再考するもよし(60点)
現職医師・大鐘稔彦の医療小説を『フライ,ダディ,フライ』の成島出監督が映像化。1989年、腐敗した市民病院に赴任した米国帰りの外科医、当麻(堤真一)は、卓越した手技と医療への熱意によってナースや若手医師を感化していく。世話になった市長(柄本明)が肝硬変で倒れると、当麻はまだ法律で認められていなかった脳死患者からの肝臓移植を決断。しかし当麻を快く思わない外科医長の野本(生瀬勝久)は、それを追い落としの口実にしようと目論み……。
医術と仁術を兼ね備えた当麻の人物造形が秀逸。医局や上司ではなく常に患者に目を向けた仕事ぶりと、おごりとは無縁の気さくな人間性が好感を呼ぶ。順天堂大学医学部が協力した手術シーンのリアリティも出色。主演の堤は相当、手技の練習を積んだと見える。脳死状態となった息子の臓器を他人のために役立ててほしいと訴える母親(余貴美子)、病魔に冒された父に寄せる市長の娘(中越典子)の心情は、それぞれに感動的。全体として、ストレートなお涙ちょうだい劇で泣きたい方には自信を持ってお薦めできる作品である。
ただし『孤高のメス』の真価は、そこにはない。ポイントは「当麻=名医=人格者」vs「野本=ヤブ医者=ゲス野郎」という、今どき少年漫画でもお目にかかれない白黒はっきりした対立の構図が貫かれていることだ。あいにく現実の世界はそれほど単純にはできていない。「腕はいいけど不愉快な医者」や、「好人物だが全然頼りにならない先生」が星の数ほどいることを、私たちは身をもって知っている。だから、ここまで単純化されると、自然に頭のどこかで警報音が鳴る。こいつは眉にツバを付けて観た方がいいぞ、と。
実際、ひねくれ者の筆者は試写室でこんなことを考えた。ひと昔前なら確実に死んでいた病人や怪我人を、他者の犠牲の上に成り立つ最新医学で延命させることは、果たして本当に進歩なのか、善なのか、正義なのか? そうした「死すべき運命」にある者を自然の摂理に従って死なせてあげないから、自分が誰だかわからなくなるまで生きざるを得なくなり、国民医療費は増大し、あげくは介護する家族の人生をも破壊することになるのではないか……。
いまだ意見の分かれる脳死移植の問題を扱いながら、『孤高のメス』では、脳死者の体を単なる「移植用臓器の畑」と見なす観点のみを美化・正当化し、それに疑問を呈するキャラクターを1人として登場させていない。2時間を超える上映時間がありながら、この偏向ぶりはどうしたことか。両論に目を配るフェアな姿勢を貫けば、たとえ最後は脳死移植を肯定するにせよ、ずっとその説得力を増すことができただろうに、つくづく惜しい。
2009年に亡くなった動物行動学者の日高敏隆さんは、あるエッセイの中で「野生動物にとっては歯の抜けたときが死ぬときだ」という卓見を書かれていた。野生動物にあらざる私としては、さすがに歯が抜けたぐらいでは死にたくないが、それでは肝臓だったらどうか。あるいは心臓だったら、片足だったら、自発呼吸だったら? こう考えると、どこに線を引くべきかは一筋縄では答えの出せない問題だ。『孤高のメス』は、この難問に対する自分の意見や立ち位置を見つめ直すための、誠に優れた叩き台だと言える。
(町田敦夫)