キアヌ・リーヴス主演、今年の冬のSF超大作映画!(50点)
産業やテクノロジーの発達に伴い地球環境は危機に晒されている。現在、先進国を中心に世界規模で環境問題への関心が寄せられ、特に地球温暖化という言葉は既に多くの人々が耳にしているだろう。『地球が静止する日(原題:THE DAY THE EARTH STOOD STILL)』は地球環境を破壊し続ける人類に警告を促すとともに、わたしたちにこんな疑問を投げかける、「人類がいなくなれば地球は救われるのか?」。
本作には1951年公開の同名タイトルのオリジナル版があり、それが57年の時を経てリメイクされた。ロバート・ワイズ監督のオリジナル版は冷戦下のアメリカを舞台に、宇宙からの平和の使者が戦争を続ける人類を説得する物語だったが(しかも少々コミカルな作り)、『エミリー・ローズ』のスコット・デリクソンの08年版はそれとは全く違うテーマの基に制作され、よりシリアスに現代の人々が抱える不安を描き出している。
オリジナル版でマイケル・レニーが演じた宇宙の使者クラトゥを演じるのはキアヌ・リーヴス。マイケル・レニーのクラトゥは人間的な温かみがあったが、今回のクラトゥは人間の姿をしてはいるが、無表情で淡々とした口調で話す。まさにキアヌ・リーヴスにぴったりの役だ。また、クラトゥは前作では空飛ぶ円盤で登場したが、今回は彼は不思議な球体から登場する。もちろん彼の相棒の1つ目の巨大ロボット・ゴートも一緒に現れるが、新しいゴートは黒光りする外見で、より不気味さが増している。またクラトゥは今回、平和の使者としてではなく、人類とテクノロジーを地球上から排除するためにやってくる。
宇宙から未知の物体と生命体がニューヨークのセントラルパークに現れたことで、地球上はパニックに陥るが、ジェニファー・コネリー扮する地球外生物学者のヘレン・ベンソン博士はクラトゥに対し、興味を持ち彼の言葉を聞こうと試みる。本作において一番面白いのはもしかしたらジェニファー・コネリーの退屈な演技かもしれない。どんな局面においてもわたしたちが感情移入出来ないのが素晴らしい。しかも、キアヌ・リーヴスと共演しているという点がさらにそれを倍増させ説得力に欠ける物語に大いに貢献している。
ヘレンにはウィル・スミスの実子ジェイデン・スミス扮する血のつながらない8歳の息子ジェイコブがおり、ジェイデンは亡くなった父に執着する難しい役を演じている。ジェイコブはなかなかヘレンに対し素直になれなず、彼らが物語の感情的なシーンを司るが、そのエピソードはあまり必要性がない。またクラトゥの登場でアメリカ大統領と副大統領が隠れている時、権力を振るうのはキャシー・ベイツ扮する防衛庁書記官レジーナ・ジャクソンで、彼女の役が他の役者のテンションと合っていないのがとても気になってしまう。そもそも防衛庁書記官があんな小柄で小太りな年のいった女性でいいのだろうか。
クラトゥはどこからともなく現れ、クラトゥに協力的で何が目的で彼がやってきたのか知りたいヘレンに「地球が死ねば、人類も死ぬが、人類が死ねば、地球は生き残れる」と告げる。ヘレンは「わたしたちは変われる」と言い、物語のクライマックスはどうやって納得してクラトゥが宇宙へ帰るかに焦点が当てられるはずなのだが、その描き方が貧そなのが非常に残念だ。テーマも新しく生まれ変わり、新鮮な視点で描かれるはずの新『地球が静止する日』は怠惰としか言いようがない物語で、ヘレンとジェイコブのセンチメンタルエピソードも、クラトゥが人類消去を諦めて帰る理由も随分とお粗末なのだ。どうせならもっと深く掘り下げて、どうして地球が生き残る必要性があるのかや、地球環境の改善にも触れて欲しかった。
物語のオープニングはなかなか良い始まり方をするが(クラトゥがセントラルパークに現れるまで)、それをうまく展開していけず、特別な作品ではなく、ただ単なるSF映画に終わってしまっている。展開があっさりし過ぎていて、結局何も起こらなかったと感じさせられるだろう。しかし、キアヌ・リーヴスが「完璧」で、ジェニファー・コネリーの演技も退屈で、わたし個人としては嫌いにはなれない作品だ。また、この映画を観ると、キアヌ・リーヴスは『マトリックス』のネオといい、『コンスタンティン』のジョン・コンスタンティンといい、今回のクラトゥも含め、同じ役を何度も演じているんだな、と感じさせられる。それもまたこの映画の憎めない点である。
(岡本太陽)