いち労働者の美しい姿を描いたお話(50点)
実在のボクサー、ジム・ブラドックの半生を描いた伝記映画。監督、主演は『ビューティフル・マインド』と同じくロン・ハワード&ラッセル・クロウ。
主人公のジム(ラッセル・クロウ)は愛する妻、3人の子供と幸せに暮らしながら、将来を期待されるボクサーだった。ところが拳の負傷から負けが込み、やがてライセンスを剥奪され失業者となってしまう。経済的な困窮から家族はやがて離れ離れになってしまうが、ある日元マネージャーから一夜限りの復帰選の話がくる。強豪ボクサーの相手がおらず、ジムに白羽の矢が立ったのだった。しかしそれは、単にKO経験の無い彼が滅多打ちにされるという筋書きを期待されてのことだった。
さて、しかしそこでジムは一念発起、噛ませ犬どころかそのボクサーを食ってやろうと猛トレーニングを開始する。そしてその意外な試合結果とは……。ボクシングを題材にした非常にマジメな伝記映画だ。144分間かけ、誠実にジム・ブラドックの人生や思想を描いている。
タイトルも含めてぱっと見、よくある感動シンデレラストーリーのように見えるが、『シンデレラマン』はそう単純なものではない。たとえば、ジムはこの手の話に良くある主人公のような、「夢をつかむために戦い、勝利をつかむ」という様子は微塵も見せない。むしろ、自意識過剰で夢を追いまくる権化のようなボクサーと対峙しながらも、一切そのペースには乗らず、淡々と戦うのみだ。その姿は上昇志向の強いスポーツ選手というよりも、日々工場に通勤し、黙々と業務を続ける市井の人々の姿と同じだ。誠実に働く人間の美しい姿を、そこに見ることができる。
彼は何のために戦うのか。彼は劇中のインタビューでそう問われ、「ミルク」と答えている。これはじつに象徴的だ。
彼は、普段はおとなしいが、貧窮のために妻が子供たちを親類に預けることを決めたときだけは猛烈に怒りを表す。また、家族を養うために、いとも簡単に選手としてのプライドを捨て、かつての仲間の元へ無心にも行ったりする。こうした行動からわかるように、この映画の主人公にとっては、自分の夢だのなんだのといった甘っちょろいことよりも、「家族とともに暮らすこと」がすべてなのだ。つまり「ボクシングは単なる生活の糧」という男ということだ。
こうした「食うために戦う。ただそれだけ」というテーマはスポーツものとしては新鮮でいい。おかげでこの手の映画によく見られる、アメリカンドリームの偽善的な一面を、あまり感じることなく見ることができる。ジムは金を稼ぐことのつらさを知るいち労働者であり、ごく当たり前のことをやっているに過ぎない、私たちと同じように……。これは非常に共感できるポイントだ。
ただし、出来映え自体はさほど優れたものではない。たとえば、何度もあるボクシングの試合の場面などは、点数をつけるならせいぜい45点といったところだ。ラッセル・クロウは終盤ラウンドになっても疲れた顔すらせず、1ラウンド目と変わらぬ動きで敵を殴る。これはどう考えてもおかしい。クリーンヒットを何発くらっても倒れないなんてのはまあ、映画だから仕方が無いかもしれないが、彼のやってる試合はどう見ていても負ける気がしない。緊迫感てものが無いのだ。この映画は「ロッキー」じゃなくマジメな伝記映画なんだから、スポーツ場面はもうちょっとリアル志向で作るべきだったと思う。
また、そのラッセル・クロウと実際のジム・ブラドックとで、相当な年齢差があるのも問題だ。ジム・ブラドックは、このころはまだ20代から30代といったところで、いわばこの映画は彼の若いころの物語のはずなのだが、演じるクロウはもう40代。なんだか老いたボクサーの物語になってしまっている。これではテーマが違ってきてしまう。なぜジムを演じるのが彼でなくてはならなかったのか。私にはそこがどうもよくわからない。先ほど書いたとおり、主にボクシングシーンにおける彼の演技は決して誉められたものではなかった。演技力を重視して選んだのだとすれば正解とはいえない。
映画『シンデレラマン』は、例によってテレビCMなどで著名人に誉めまくらせ、あたかも感動物語のような印象操作を行っているが、実際はそういう場面はほとんどなく、あくまでクソまじめな144分間の伝記映画だ。娯楽色はほとんどなく、このボクサーに興味がない人が見るにはちょっとつらい。映画の本当の見所についてはこのページで公平に説明したから、自分に合うと思った方のみ劇場へ出向くといいだろう。
(前田有一)