売り手側の色気をすべて見透かされた(10点)
1989年に東京の足立区で実際に起きた、日本犯罪史上に残る凶悪事件『女子高生コンクリート詰め殺人事件』を映画化した作品。東京・銀座シネパトスで公開予定だったが、映画化を知った人々の間に反対運動が巻き起こり、上映中止に追い込まれた。本来、今週末の劇場公開作品を先行紹介するのがこのサイトの基本方針だが、この作品については読者からの要望が特別に強かったため、例外的に紹介することにした。
上映館の銀座シネパトスには、電話やFAX等で反対意見が寄せられたというが、なぜ映画『コンクリート』はここまで人々の強い反感を買ってしまったのか。実在の殺人事件の犯人側をリアルに描いた映画だからか? ……いや、違うだろう。そうした映画は、米国のコロンバイン高校銃乱射事件の犯人たちの周辺を描いた『エレファント』をはじめ、この1,2年だけでもいくつかある。
『コンクリート』最大の問題は、製作側(の一部)に真剣さが足りなかったという点にある。たとえば、この映画のキャスト中、最大の重要人物である被害者の女子高生役は、小森未来が演じている。だが、彼女はお世辞にも女優を本業にしているとはいいがたい、ヌードグラビア界のアイドルだ。このキャスティング一つをとっても、この題材に対して真剣に取り組んでいない証明みたいなものだ。
また、『コンクリート』のような低予算映画では、監督によほどの手腕がなければ、なかなか良い作品は望めない。今回起用されたのはある新人監督だが、映画の出来映えを見る限り、難しい題材をまかせる人材として、ベストの選択だったとはいいがたい。
わざわざ今、この事件を映画にするのならば、そこにはよほどの信念と、情熱に裏づけされたテーマがなくてはならない。最低限、それを具現化できるだけの実力派の監督と役者を揃えなければ、事件関係者に対しても失礼だ。さらに、演出上の妥協をしないですむよう、お金もそれなりにつぎ込む必要があるだろう。こうした事ができないのならば、手を出すのはやめておくのが良識というものだ。
前置きが長くなったが、そろそろ映画『コンクリート』の中身について書くとしよう。登場人物の設定やストーリー、虐待の内容は、おおむね事件どおりとなっている。一部で心配されているような、エログロ趣味を前面に押し出した不謹慎なものという印象はない。宣伝やキャスティングの方はともかく、中身はそれなりに真面目に作ったのだな、という感じは受ける。
輪姦や性器の破壊行為、警察からの電話を犯人の少年がうまくごまかす場面、ライターのオイルで被害者の皮膚を焼く場面、ドス黒く変色し、原型をとどめぬほど顔が腫れるまでの暴行、刑事がふと言った一言を勘違いして自供をはじめる結末まで、一般に知られる事件の概要をなぞってゆく。
ただ、腫れた顔や傷口など特殊メイクの出来は良いものの、被害者役の小森未来の演技力(殴られた時の表情など)が皆無なので、観客は被害者の『痛み』を感じられない。また、彼女がはいているパンツがいつも新品のようにまっさらだったり、そもそもなぜブラは取られているのに、下ははいているのかという疑問もつきまとう。いかにも作り物といった印象が、こうした細部から感じられる。これは、事件をリアルに描く上で致命的なマイナスだろう。
また、犯人側の少年たちについてだが、「ひどい家庭&社会環境からのストレスにより精神が麻痺し、犯行がエスカレートした」という描き方は、少々安易ではないか。さすがに彼らを擁護まではしていないとはいえ、実際の事件で行われた残虐行為の異常性を知る観客にとっては、こうした結論では納得できない人も多かろう。このようなありがちな主張を描くのであれば、それこそ『フィクション』の事件で十分だった。それほど、あの事件は異質・異常だったのだ。あの犯人たちの心理は、素人が簡単に解釈できるような種類のものではないと、私は思っているのだが。
結論として、『コンクリート』はとても中途半端な作品だ。人々をあっと言わせる新たな視点や解釈は全くない。無難な切り口で事件を描く事で観客からの批判を避けつつ、特殊な性的趣味の人々を意識した宣伝で売っていこうという色気を、完全にユーザーに見抜かれた痛々しい映画作品だ。
(前田有一)