◆俳優・渡部篤郎の長編初監督作。ワンテイク、NGなしで撮影した、ドキュメンタリーでも、劇映画でもない物語(83点)
俳優たちは普段から、映画にはワンテイクしか必要ないと思っているのかも知れない。俳優が監督すると、ワンテイクで撮りたがるように思う。俳優ヤン・イクチュンが製作・監督・脚本・編集・主演を務めた韓国映画「息もできない」(2008)は、打ち合わせ、リハーサルなしのワンテイク。クリント・イーストウッドもほとんどワンテイクで撮ると聞く。そして本作も、俳優・渡部篤郎が原案・監督・出演を務め、ワンテイク、NGなしで撮影された。
面白いことに、同じワンテイクの撮影でも、「息もできない」が「芝居」の圧倒的な瞬発力を感じさせるのに対し、本作の雰囲気は「芝居」から離れてドキュメンタリーに近い。まるで真逆でありながら、どちらも抜群に面白く、感動的だ。
北海道の小さな町で父親(北見敏之)と暮らす黒川冬沙子(高岡早紀)は、大雪の日、門倉渉(渡部篤郎)と出会うが、彼は話すことが出来なかった。冬沙子と門倉はお互いに恋心を抱くようになる。そんなとき、冬沙子が落馬事故を起こしてしまう。
台本には大まかな流れが書かれているだけ。シーンごとに渡部監督が状況を説明し、役者同士で話し合って、本番に挑む。セリフのほとんどがアドリブ。渡部監督はフィルムが足りなくなるほど、延々とカメラを回し続けたという。カットの指示が出るまで、役者たちは映画の中の人物として、「雑談」を続けなければならない。
普通の映画であれば、登場人物は順番にセリフをしゃべっていく。セリフがかぶることは余りない。本作では、様々な場面で何人かのセリフがかぶる。何を言っているのかよく聞き取れない場合もある。だが、現実の会話とはそういうものだ。
ワンテイクの撮影は、役者たちが演技する空間に、独特の臨場感をもたらす。映画において本当の意味での「雑談」、すなわち、意味のないセリフのやりとりはあってはならないはずだ。だが、本作では「雑談」がドキュメンタリーのような雰囲気を作り上げている。
もちろんドキュメンタリーではない。例えば漫才の舞台などでは、ネタは決まってはいるが、アドリブでのやりとりの部分はノン・フィクションだ。一般の劇映画では余り見ない、そのようなノン・フィクション部分が本作では前面に出て来ているのが面白い。
その結果、登場人物の「実在感」が実に際立っている。雪に覆われる北海道のシンプルな風景の中で展開する、シンプルな話だが、役者たちが「役に生きる様」を、本作は捉えている。高岡早紀、渡部篤郎、北見敏之、未希、渡辺えり、広田レオナら、NGなしの撮影に応えた俳優たちが素晴らしい。
そして、この「実在感」が物語のテーマにもなっている。ラスト、ある事故によって、冬沙子と門倉が触れ合った「事実」そのものが丸ごと失われてしまう。やや唐突ではあるが、この結末自体が、「実在感」とは何かを問いかけている。どこまでも真っ白な雪が、すべての物語をのみ込んで、消し去ってしまうように思えて、とても切ない。
(小梶勝男)