◆官能シーンを含め、ふたりの演技が圧倒的な光彩を放っている(75点)
弁護士事務所での秘書経験を経て大学に通うコンスエラ(ペネロペ・クルス)は、カリスマ的な大学教授デヴィッド(ベン・キングズレー)と出会い、お互いに惹かれ合う。デヴィッドは、コンスエラの美しさに熱を上げるが、一方で、彼女との未来に不安を覚える。ある日、コンスエラの卒業パーティに誘われたデヴィッドだったが、迷った末にコンスエラに電話を入れ……。
デヴィッドはメディアでも活躍する有名教授だが、彼がコンスエラを見つめる視線はというと、なんとも粘着質でいやらしい。本人は、文学的なレトリックを駆使してコンスエラの肉体を"芸術"に例えてみせるが、要するに、彼女の美貌とプロポーションに、単純に、男として、心を奪われたのだろう。
一方、30歳も年下のコンスエラの目に映るデヴィッドは、知識と教養を兼ね備えた大人の男、と言ったところだろうか。先鋭的な主義を主張し、芸術にも造詣の深い知性派文化人に、同年代の異性にはない人間的魅力を感じる――。それはそれで十分に納得できる。
ふたりが出会ってからのくだりは、甘美なフランス映画を彷彿とさせる。絵画や写真を織り交ぜた描写には、大人の芳香が漂う。さしずめ、コンスエラをものにしたデヴィッドに抱く多くの男性の感想が、"うらやましさ"であることに疑いの余地はない。たしかに、それほどにコンスエラは美しい。
肉体的に結ばれたふたりは、その後、"いかにも"な男女の駆け引きをくり広げる。おもしろいのは、デヴィッドが襲われるコンスエラに対する嫉妬心に、本気で恋に堕ちた人間の滑稽なまでのサガ(独占欲)が読み取れる点だ。しかも、社会的成功とは裏腹に、愛と向き合うスタンスが未熟。肉欲を抜きに異性と付き合った経験が乏しいせいか、受け入れるべき現実を、駄々っ子よろしく拒絶する。デヴィッドのこうした人間くさいギャップは、ある意味、この作品の妙味である。
終盤、この作品は、ふたりに2年という空白期間を与え、物語を劇的に変化させる。見る人によっては、蛇足ともご都合主義とも受け取られかねないこの空白。がしかし、そうまでして描きたいものが、この作品にはあったと、私は理解する。
この空白期間に、デヴィッドの身に何が起きたのかは、観客ひとりひとりが察するべきところだが、いずれにせよ彼は、長年引きずってきた偏執的な足枷を外す。ひとりの初老の人生観の変革を描いたこのクライマックスは、取りも直さず本作「エレジー」の真価そのもの。人間が真に人を愛することの意味が、そして、人間の精神が年老いてもなお成長するものだという希望が、このエロティシズムあふれる年の差恋愛物語の水面下に隠されたサブテキストではないだろうか。
揺れ動く女心を、ときに大胆に、ときに繊細に表現するペネロペ・クルスと、不安と小心さを抱える初老の教授を演じたベン・キングスレー。官能シーンを含め、ふたりの演技が圧倒的な光彩を放っている。また、デヴィッドの親友を演じたデニス・ホッパーや、デヴィッドの愛人を演じたパトリシア・クラークソン、デヴィッドの息子を演じたピーター・サースガードらの深みのある演技も、この映画の魅力を支えている。
人間には、時を経てからしか見えてこないものがある。ただ、最終的に見えたのであれば、それまでに費やした、盲目だった時間を恥じる必要はないのかもしれない。そんな感慨を残す秀作だ。
(山口拓朗)