◆夢であることが分かっていても、そこから逃れるには誰かに起こしてもらうしかない。映画は夢を見ている本人をその夢の中で追い詰めて刃をふるう殺人鬼を通じて、人間の潜在意識に巣食う悔恨の念に取りついた悪霊の執念を描く。(40点)
耐えがたいほどの睡魔に襲われ、目を開けているつもりでもつい意識が飛んでしまう。睡眠と覚醒のグレイゾーンで何とか正気を保とうとする若者たちは、いつの間にか夢の中に引きずり込まれている。そして、夢の中では夢であることが分かっていても、そこから逃れるためには誰かに起こしてもらうしかない。映画は夢を見ている本人をその夢の中で追い詰めて刃をふるう殺人鬼を通じて、人間の潜在意識に巣食う悔恨の念に取りついた悪霊の執念を描く。
エルム街に住む高校生がナイフの爪を持つ男に襲われる悪夢を見た上に不審死を遂げる。4人の同級生も同じ悪夢に苛まれるうちに次々と惨殺されていく。生き残ったクエンティンとナンシーは幼稚園時代のアルバムを紐解くうちに、フレディという男の存在が浮かび上がる。
歪んだ壁からフレディが現れたり、1人きりの教室がふいに廃墟に変わっていたり、血の海の重みに耐えかねた天井が抜けたりと、悪夢の視覚的表現が凝っていて楽しめる。夢と分かっているから非現実的な現象は何でもアリだが、そこではフレディの「殺しの美学」が貫かれ、リアルな恐怖と痛みを伴う。クエンティンは、フレディが追い詰められてなぶり殺しにされる夢を見るが、それは彼の大脳の奥に眠っていた記憶。本当は夢を見た全員がフレディを知っているのに、無理やりその事実に封印をしていたのだ。だからこそフレディの命を奪ったという良心の呵責と被害妄想が夢の中のフレディを肥大化させ、殺人鬼に変貌させたのだろう。
幼稚園の用務係だったフレディは園児に対するいたずらがばれて保護者から制裁を受けるが、実は犯罪の確証がなかったことが明らかになる。無実なのに殺された、その怨念が十数年後に夢を支配する力を得て復讐に戻ってきたという理屈。この理由のほうがフレディの無念を晴らすという意味で彼の行動に納得できる部分もあったのだから、さらに別の“真相”を付け加える必要はなかったはず。無用な蛇足のせいでフレディへの共感は一気に薄れてしまった。。。
(福本次郎)