たしかに胸に迫るものはあるのだけれど、感傷に浸れるほど昔の事ではないように思う。(点数 75点)
ストーリーが2004年のスマトラ島沖地震を下地にしているので津波のシーンが有りそれが生々しく、また凄惨なので途中から比喩的ではなく身体的に頭が痛くなった。
ナオミ・ワッツが演じる気丈な母親が怒濤の波に呑み込まれて負傷するのだが、それにより次第に容体が悪化していくさまが非常にリアルでこちらも気分が悪くなった。
彼女が今作でアカデミー賞にノミネートされたのも頷ける。それだけ迫真の演技だった。
現実に起きたことなのでカメラを通してであっても追体験するのは相当心理的に負荷がかかる。
カメラを通して見ることはもはや客観なのだが、現実に起きた事件をそのように見ることを構造的に強制されることに居心地の悪さを感じることが多々ある。
主観と客観の対称性ゆえに未だ主観としてしか捉えられない津波の災害を、半ば強制的に客観視を迫られる事について、第三者のように観ることはまだ私には出来ない。
試写の間はそこかしこで洟を啜る音が聴こえたのだけれど、映画に共感するということは既に彼らの心の中では過去の出来事として心の整理がついているのかも知れない。ただ、私には津波の災害は映画ではなく現実と地続きの生々しさを持った事件であり、この映画のような幸運な家族は例外として、この災害で多くの犠牲者が出ていることの方が気分を重くさせる。
映画自体は津波の被害を受けても懸命に生き抜く母子のサバイバルが活写されているが、やはりそれがリアリティを持つ程に客観性を宿命づけられたカメラワークに苛立ちにも似た違和感に苛まれるのである。まだこれは他人事では済ませられないと思ってしまうのだ。
映画というものは過去の大事件・大災害を再編しドラマとして再現する”記録装置”なのだが、そういった作品が成立するのも”当事者が少数のもの”、”当事者が既に物故している”等の諸条件をクリアしていないといけないように思ってしまう。
例としては、タイタニック号事件は当事では海難史上最悪の事故だったが、それから半世紀以上が経って関係者の多くが鬼籍に入りまた事件から歴史へと整理されていく過程に入ったから映画としても成立出来た。だが、スマトラ島沖地震は災害の規模と被害者数を考慮するとまだ客観視出来るほど心の整理のつかない人は多いのではないだろうか。
そして東日本大震災で津波のニュアンスが書き換えられて非常に重い意味を持つ言葉になってしまった。
シンガーの桑田佳祐氏が『TSUNAMI』を歌うことが躊躇われると述懐したのもそういった配慮からである。
この作品にはそのような配慮が無いと批判するつもりはないのだが、悲しみにしがみつかず過去を乗り越えて行く人間のたくましさに少しばかり唖然としてしまうのだ。
(青森 学)