究極の投資ははたして幸福を生むのか?(55点)
昨今は投資ブーム、というより、FXだの株式投資といったものはもうすっかり人々の生活になじんでいる。正社員以上の人ならば、誰でも何かしら行っているのではと思うほどだ。私の周りでも、ホリエモンのせいですっかり資金を溶かした人から、億単位の儲けを出している人まで、様々な話が聞こえてくる。
そんな時代に森田芳光監督(『椿三十郎』ほか)は、ユニークなオリジナル作品を送り出した。『わたし出すわ』は彼の13年ぶりの、原作ものではない映画作品だが、そのテーマはずばり「お金の使い方」だ。
山吹摩耶(小雪)は、故郷に戻ると次々と昔の同級生に再会する。高校以来、変わらぬ町と友情。そんなクラスメートたちの「夢」や「将来」の話を聞きながら、最後に彼女は言う、「私がそのお金、だしてあげる」。
小雪さんのような美人同級生が久々に帰ってきたとなれば、男なら多少大きく「オレの今の夢はな……」なんてぶち上げ始めるものだが、サラリとこんな返しをされたらそれこそ大変である。
だいたい、大金をぽんと渡されたところで、普通なら受け取らない。……いや、うけとるか? いやいや、まずは怪しいと思うのではないか。親切なふりして、仏陀再誕の勧誘でもしようとしているのでは? 大体コイツ、このカネどこから工面したんだ?
こうした葛藤こそ、この展開における大きな見所だと思うし、もっと面白おかしく描けたはずと思うのだが、本作の登場人物たちは皆、意外なほどさらりと受け取ってしまう。観客は、「オレならこうはしないぞ」と、イラつくことになる。
なるほど、どうやら森田監督は、あまり強く私たちに感情移入をさせまいとしているようだ。引きの絵を多用するなど、意識的に観客と物語の間をロングレンジで保とうとするあたりからも、そう感じる。
こういう時、私は無理をしない。気楽に、この物語が何を比喩しているのか、神の視点に立ったつもりで考える事にしている。
ヒロインの行為は、ちょいと珍しい形の「投資」に思える。資本主義の世界では、知りもしない会社の株や、行ったこともないどこかの国の通貨に人はいくらでもカネを出す。その常識に毒されている私たちは、ヒロインの行動をキチガイじみていると批判、あるいは嘲笑する。だがその感覚は、人として本当に正常なものだろうか。
大事な友人の幸せを願ってカネを渡す。自分が受け取る利息はゼロかもしれないが、その投資金はその人物の運命を間違いなく変えるだろう。幸福になるか、逆に不幸になるかはその人の使い方しだいだが、成功失敗どちらもあるあたりも「投資」そっくりだ。この映画におけるいくつかのケースで、はたしてヒロインの投資がどちらに転ぶか、注目である。
そして、彼女の行動のとっぴ具合をさらに上回る「投資」活動(?)をする人物も出てくる。その究極の「金の使い方」をするやつとは一体誰なのか。
通常の「常識」では到底理解できぬ人々が出てくるこの映画。そこで「こんな非現実的なヤツいねーよ」で終わるか、理解できない自分の常識をこそ疑うか。そこが、この映画をその後の人生の糧にできるか否かの分かれ道である。
ただ、それにつけても金はほしい。小雪さんは、どうして私のところに来てくれないのだろう。
(前田有一)