◆ひとりでは寂しすぎる、でもそこに行けば必ず誰かがいて、孤独ではないことが確認できる。昭和の面影が色濃く残る古い一軒家の食堂に集まる人々の小さな夢が少しだけ叶うとき、その心にろうそくの火のような暖かさが灯る。(50点)
ココではないどこかに行こうとしても、結局ココに戻ってきてしまう。自分が今いるところから離れようとしても、やっぱり癒され落ち着けるのは慣れ親しんだ場所。ひとりでは寂しすぎる、でもそこに行けば必ず誰かがいて、孤独ではないことが確認できる。昭和の面影が色濃く残る古い一軒家の食堂に集まる人々の小さな夢が少しだけ叶うとき、その心にろうそくの火のような暖かさが灯る。万歩計、ベレー帽、路面電車、タイプライター、エスプレッソマシン、石油ストーブ、古本屋…。つややかな映像からは電子機器に頼らない人間の温もりが伝わってくるようだ。
つむじ風食堂に入った先生と呼ばれる男は、帽子屋が「二重空間移動装置」と名付けて売っている万歩計を買う。帽子屋はその万歩計で瞬時に別の土地に行けると信じている。ある日、先生は常連客で女優の奈々津に脚本を書いてくれと頼まれる。
映画は、先生が、帽子屋、果物屋、奈々津、そしてコーヒーショップの主人といった人々と取り留めのない話をしている様子を散文的にスケッチしているのだが、すべての登場人物は童話のキャラクターのように寓意を秘めている。古本屋の主人は先生が欲しがる本に300万円の値をつけたり、果物屋の青年と宇宙の始まりと果てについて語り合ったりするシーンは、己の価値観に縛られすぎることの狭量さを指摘されているようだった。
先生は手品師だった父が使っていた手袋を部屋に飾っている。それは突然いなくなってしまった父に対し、いまだ恨みと懐かしい思い出が半ばこもった複雑な感情を抱えている証。先生は奈々津のために物語を作る決心してやっと父への気持ちを整理するが、先生が新しい一歩を踏み出すとともに、先生自身もまた彼にとっての居心地のいい「ココ」を見つけたということだろう。一番くつろげる、そして愛する人がすぐそばにいてくれる。先生も奈々津もお互いの存在が彼らのとっての「ココ」であると気づき、人はみな収まるべきところに収まる、そんな優しさに満ちた作品だった。
(福本次郎)