◆血に染まる入り江がわたしたちに伝えんとする事とは何か?(80点)
日本は捕鯨という狩猟文化のある国だ。クジラ資源の保存やクジラの乱獲防止のため、国際捕鯨委員会によって現在捕鯨は厳しく取り締まられている。そもそも捕鯨をする国は世界にそう多くはない。鯨肉が貴重なタンパク源であり、鯨油が生活の糧であった時代とは違い、現在は捕鯨は単なる「伝統」に過ぎなくなってきているというのが事実だ。
捕鯨が伝統の色のみを染める今日、日本では国際捕鯨委員会の取り決めに従い、自由に大型の海洋哺乳類の捕獲は出来なくなってしまったが、イルカ漁は今もなお続いており、年間2万頭ものイルカが殺されているという。和歌山県太地町(たいじちょう)のイルカ漁のやり方は何艘もの船を使った追い込み漁で、漁師達はイルカを入り江まで追い込み、モリで無抵抗なイルカを突き刺すのだ。そして入り江はイルカから流れ出た血で真っ赤に染まる。その衝撃的な映像を見せつけるのがサンダンス映画祭でドキュメンタリー部門の観客賞を受賞したドキュメンタリー映画『ザ・コーヴ』。約18年間ナショナル・ジオグラフィックのカメラマンとして活躍した監督のルイ・サイホヨスは一切のメディアの撮影を受け付けない太地町のイルカ漁の秘密を暴く。
「秘密」を暴く為に、監督のサイホヨス氏他、TVシリーズ『わんぱくフリッパー』のイルカのトレーナーであり、このプロジェクトの中心人物でもあるリチャード・オバリー、航空電子工学のエキスパート、特殊効果アーティスト、素潜りダイバー等が「入り江」に集結する。しかし、太地町は小さな町。外国人が入ってくると直ちに彼らの存在が町に知れ渡る。このチームは計画実行中は太地町のホテルに滞在するが、彼らは常に警察やその他の組織による張り込みを経験する。この町に何か重大な情報が隠されている証拠だ。
一般の入り江への侵入は「落石注意」等の標識のため不可能で、イルカ漁の様子を撮影する事は容易ではない。またその周りには24時間態勢で番人達がおり、まるでそこは要塞か何かの様にさえ映る。それゆえチームが一丸となり、危険の及ぶ作戦を遂行する様子が『スパイ大作戦』や『オーシャンズ11』を彷彿とさせ、日本の小さな町でハラハラする展開が起こる。
まず、ほとんどの日本人はイルカを食べる習慣がある事を知らない。それにも関わらず、大量に漁を行う必要がある程、イルカの肉は需要があるのだろうか。そんな疑問が、イルカが無惨にも殺されてゆく映像を前に脳裏に浮かんでしまう。太地町には伝統だけではない、それを続ける理由があるのだ。謎のイルカ漁の様子を映す以外に、例えば、新聞記者が政治界のスキャンダルを露顕する様に、イルカ漁にまつわるもう1つの秘密を暴くドラマチックな展開が本作の面白さとなっている。
本作はまた、強烈な映像を見せる事とは別に、イルカ狩りの必要のなさを訴える。ここでは海に流れる有機水銀を問題視しており、その水銀を大量に含むイルカの肉を食べる事による水俣病が起こる可能性を示唆する。水銀はプランクトンから小魚へ、そしてマグロ、イルカ、鯨等の大型海洋生物に受け継がれ、実際に彼らの肉には蓄積された高濃度の水銀が含まれている事が確認されている。イルカ漁が行われている太地町では比較的安価のイルカの肉を学校給食でも出していたそうで、子供達の健康への危険が懸念された。そこで、本作は自らの職を失う覚悟でイルカの肉を給食に出さないよう訴える2人の日本人地方議員を紹介している。
『ザ・コーヴ』の上映時間は90分。完成作品こそ監督の意向通りアクションスリラーの様なドキュメンタリー映画だが、実はスクリプト無しの600時間にも及ぶ映像からの編集作業が行われたという。『マーダーボール』『シッコ』のエディターであるジェフリー・リッチマンがその途方も無い長さの映像を見事にまとめ、本作の筋書きを手掛けたマーク・モンローは頭に焼付いてしまう映像に注目し、特に最後の20分は生の映像に不快な音楽を乗せただけという手法で観る者に強いインパクトを与える。この映画の中ではイルカ漁が良いか悪いかは決して言わない。それゆえ製作者の意向は明確だが、観る者に100%意見を委ねた作品と言えるだろ。
古くからの伝統は継承していく必要がある、というのは世界中どこでも同じだろう。しかし、わたしたちの基本的な生活スタイルは環境の変化や技術の進歩と共に変わってしまった。目まぐるしく様々なものが変化していく今日、時代の流れと共に伝統の形も変わっていく必要があるのかもしれない。また、本作では伝統を守ろうとする立場とイルカを保護する側の両極端な考えが交錯する。しかしながら、世界を見た場合、伝統を守りたいという気持ちも、イルカを救いたいという思いも理解したいため、ほとんどの人は極端な意見を持たない。この映画はそのどちらとも言えない人々にとって考える機会を与える映画である。血で赤く染まる入り江を目撃してしまった時、わたしたちに何か出来るのでは、と思わせてしまうのがこの『ザ・コーヴ』なのである。
(岡本太陽)