映画監督 山川直人氏 インタビュー
「理想を言えば自分が想い描いている映画をもっと実現出来たらという気持ちはありますね。」
2008年1月15日更新
1957年4月10日、愛知県に生まれる。早稲田大学入学と同時にシネマ研究会に所属し、自主映画作りを本格的にスタートさせる。2作目に発表した8ミリ長編「ビハインド」がPFF’79でベスト作品に選出され、同時代の自主映画作家たちに強い影響を与えた。16ミリ長編「アナザ・サイド」(’80)、村上春樹の原作をもとにした16ミリ短編「パン屋襲撃」(’82)、「100%の女の子」(’83)は海外の映画祭などでも上映され、高い評価を受けた。 ‘86、高橋源一郎原案・脚本の「ビリィ・ザ・キッドの新しい夜明け」で劇場用映画デビュー。代表作は「SOWHAT」「バカヤロー!3・ヘンな奴ら」「時の香り?リメンバー・ミー?」(’00)など。最近では舞台の演出や、大学での臨時講師なども務めている。
―監督になろうと思ったきっかけは何ですか?
子供の頃から映画が好きで、中学校や高校の頃は人よりたくさん観ていました。それもあり大学に入ってからすぐに映画サークルに入ったんです。ただそこは皆で映画を観ては意見交換をするといった映画評論が主体のサークルでした。そんな中一つ上の先輩が映画を作ると言って自主映画を撮り始めたんです。僕もそれを手伝うことになったんですが、いつのまにか映画作りに没頭してましたね。実は映画を観るのは好きだったんですけど、それについてみんなと話し合うのが嫌いだったんです(笑)。自分がいいと思った所を否定されるのも嫌だし、人のいい所も特に気にならなくて。その頃の僕はそういう意見交換のサークルにいるより、映画を作っている方が楽しいなと思ったんでしょうね。それもあり2年の頃に先輩の映画作りに携わった後、3年の頃には自分で8mmを回してました。それがきっかけですかね。
―映画を撮る事に関しての専門知識はあったのですか?
特に撮影の勉強はしてませんでしたが、その先輩を手伝ってるうちにだいたいの事は分かってきましたね。撮ると言う意味ではもちろんアマチュアでしたけど、その頃って機材が急激に発展し8mmで映画を撮れる様になった時代なんです。それまで8mmの他に16mmなど色々とありましたが、音と画をシンクロさせるのが大変で、それが簡単に出来る様になったのがちょうどその頃なんですよね。たしか1970年代後半ですか。サウンドの8mmが出始めてセリフと画も合う様になってきたので、8mmでもセリフで構成される映画を撮れたんです。まぁ16mmフィルムの値段が高くて買えなかったって言うのもありますけどね(笑)。
―映画監督という道はその頃に決めたのですか?
いや、その頃は全く考えていませんでしたね。もちろん映画を撮るのは楽しかったんですが、それが直接仕事には結びつかなかった。それと基本的ですが撮影所に入社して助監督から始めるというのが自分の中にイメージ出来なかったんです。助監督をやっていてもそのまま監督なれる保証はないですしね。ただ当時自分よりは5、6歳上で大森一樹さんや森田芳光さんといった監督がいらっしゃったんですけど、お二人とも自主映画から監督になったんですよ。それを目の当たりにして、そういう道もあるのかなとは思いましたね。とは言ってもその頃はまだ助監督をやるのが王道だったので、自分がそれを出来るのかなと思っていました。大学の2、3年の頃は映画撮影の他にイラストの仕事を別でしてたんですよ。アルバイト的な事じゃなくて大手出版社でイラストレーターとしてやっていたので結構稼げてたんです。そういうことをやりながら遊びで8mmの映画を撮れればいいやって思ってました。学生の頃はそれが一番理想の形だったんですよね。基本的に共同作業が嫌いだったんです(笑)。大学卒業する頃ですかね、もうすこし映画を頑張ってみようと思ったのは。予想通りそれからは4年間無職でした。その後たまたま資金出してくれる人がいて短編映画を撮れる様になって。卒業後4年してからですよ、やっと職業になったのは。映画を撮ってお金をもらえるなんてすごい、といった感じでしたね(笑)。
―最初の作品が出来上がった時の感想は?
自分がこうしたいと想い描いていたものは全て実現したんですよね。たしか僕が28歳くらいの頃かな。ただその時に思ったのが、これからどうしようかってこと。新しい目標が思い浮かばなくなったんです。何か変な感じでしたね。嬉しいは嬉しいんですけど、こういうものかって。最初の映画を撮り終えた時に、これは撮りたいものが撮れてたまたま映画化してもらっただけで、これを続けていくにはどうしたらいいのかという現実に直面したんです。この映画をきっかけに、映画作りを職業として考えるという事に気付かされました。
























