BECK - 小梶勝男

BECK

© 2010「BECK」製作委員会

◆観客の想像を超えられないものを、描かないことによって、観客の想像を超えようとした意欲作(72点)

 次々と大作、話題作を手掛け、ヒットを飛ばしている堤幸彦監督は、一般の観客に支持されていると言っていいだろう。しかし、周囲の映画記者や関係者にそう言うと、強烈に反論され、バカにされることが多々ある。コアな映画ファンの一部には、堤作品が大嫌いな人たちが存在するのである。堤監督が一般の映画ファンに受け入れられるのに、一部のコアな映画ファンに嫌われるのは、なぜなのだろうか。

 「BECK」を見ながら、思い出したのは、2年前、パリのマンガ学校を取材した時のことだ。そこでは、日本の女性マンガ家が講師となって、外国人(主にフランス人)に日本マンガを教えていた。女性講師は、まず外国人には、「日本マンガとは何か」から教えなければならないと語った。

 フランスにもバンド・デシネ(BD)と呼ばれる一種のマンガがある。日本では「ユーロマンガ」(飛鳥新社)というヨーロッパのマンガを紹介した雑誌で読むことが出来るが、日本のマンガ(以下、マンガ)とはまるで違うのだ。BDは一種のアートで、絵画やイラストのようにヒトコマずつ描き込まれていて、ストーリーも非常に完成度が高い。こう書くとBDの方が高級なようだが、実際にはマンガの方が圧倒的に面白いと思う。BDにはBDの良さがあるのだが、我々が思う「マンガの面白さ」とはちょっと違う気がする。

 パリの女性講師は、「きっちりと全部描くBDに対して、マンガは省略して、読者に想像させる部分が大きい。ストーリーを重視するBDに対して、マンガは登場人物の感情を大事にする」と語った。ここにマンガの本質がある。省略(象徴性)と感情なのだ。

 日米の「ゴジラ」を例に挙げると分かりやすいかも知れない。日本の「ゴジラ」は着ぐるみだ。生物としてのリアリティーには欠ける。それ故に、象徴性を持ち得た。放射能を吐き散らしながら、戦後復興した東京を踏みつぶすゴジラは、英霊の象徴であると言われるように、「破壊神」としての一種のシンボルなのである。一方、ハリウッドがリメークしたローランド・エメリッヒの「GODZILLA」は、その名前に「GOD」を含んでいるにもかかわらず、破壊神としての象徴性を持ち得なかった。生物としてのリアルな描写を重んじる余り、ただのでかい爬虫類になってしまったのである。日米のゴジラの違いは、マンガとBDの違いと相似形ではないだろうか。

 さらに言うと、岡田斗司夫さんが著書「オタク学入門」で、日本の特撮と西洋のSFXの違いについて触れていて、日本の特撮は印象派絵画的で「見立て」であり、西洋のSFXは写実絵画であると書いている。「見立て」は日本文化の本質であり、それがマンガとBDの違いにもつながっているのだ。それは、コスプレという文化が日本で発展したこととも関係していると思う。長くなるのでここでは書かないが、山田誠二監督の「新怪談必殺地獄少女拳/吸血ゾンビと妖怪くノ一大戦争」のレビューに書いたので、参照して欲しい。

 何が言いたいかと言うと、堤作品はマンガであり、いわゆる「映画らしい映画」と呼ばれるものはBDではないか、と思うのだ。

 コアな映画ファンが「映画らしい映画」として思い浮かべるのは、ワンカットが長く(もしくはブライアン・デ・パルマのようにアクロバティックなモンタージュを見せるのも映画らしいと言われる)、ロングの画が多く(それ故に画面は描きこまれている場合が多い)、登場人物の感情よりも全体的な物語を描く作品だろう。極端な例で言うと、タル・ベーラやテオ・アンゲロプロスの作品は映画らしい。これら巨匠の作品は、もちろん刺激的で面白いのだが、映画を見慣れていない一般の観客からは、退屈な作品と見なされかねない。その意味では「映画らしくない」堤作品は、登場人物たちの感情に常に寄り添い、その感情の流れで一気に見せるので、退屈はしない。

 「BECK」はロックバンドの物語だ。いじめられっ子の高校生が、アメリカ帰りのギターの天才と出会い、自らの才能を開花させていく。帰国子女のギタリストと、その美人で挑発的、生活感のない妹。上半身裸のベーシスト。ケンカの強いラッパー。米国の音楽業界を牛耳るマフィア。私のようなつまらない中年男とはまるで無関係の世界である。最初の方は、イケメンたちが次々とカッコよく登場してくる展開について行けなかった。それが、次第に引き込まれ、最後はイケメンたちに共感し、心を打たれたのである。感情の流れがきっちりと描かれているからだろう。

 一方で、薄っぺらさを感じる描写も多い。バンドのライブの映像や、クライマックスの、雨の中のロックフェスティバルは迫力たっぷりに描かれている。だが、主人公を脅迫する黒人マフィアは暗黒社会に生きる凄みが伝わってこないし、中村獅童が演じた主人公たちを邪魔する大物プロデューサーも、獅童のコスプレのようにしか見えない。一種の「記号」として描かれているのである。「マンガみたいな」登場人物と言ってもいいかも知れない。こういう場合の「マンガみたいな」は、リアリティーがなくて真に迫って来ないという悪い意味で使われている。マンガを愛する私としては、こういう言い方は嫌なのだが、あえてそこに必要以上のリアリティーを持たせず、ある意味、象徴として描いているのではないだろうか。それよりも、主人公たちの感情表現の方を重視していると思うのだ。

 原作は有名なマンガであり、本作が様々な意味でマンガ的であることは、悪いことではない。むしろ、マンガ的であるのが、この作品にとっては正統なことだと思う。

 ただマンガ的に描くだけでなく、堤監督は驚くべき「省略」も見せる。どう描いても観客の想像力を超えられないものを、描かないことで、観客の想像力を超えようとする試みだ。「省略」の部分についてはすでにネット上で様々に流されているが、ネタバレを避けるためここでは書かない。もちろん、賛否両論あると思うが、私はこれこそが堤監督の真骨頂ではないかと思っている。

小梶勝男

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