ALWAYS 三丁目の夕日’64 - 山口拓朗

複数の細かいエピソードを出し入れしながら、観客の涙腺と笑いのツボを刺激する。(点数 70点)


(C)2012「ALWAYS 三丁目の夕日’64」製作委員会

『釣りバカ日誌』シリーズの終了(2010年)を受けて、大衆娯楽映画は姿を消したかのように思えたが、『ALWAYS 三丁目の夕日』がシリーズ化されたことによって、その絶滅に「待った!」がかかった。

シリーズ第3弾となる『ALWAYS 三丁目の夕日’64』は、高度経済成長に沸く1964年が舞台。複数の細かいエピソードを出し入れしながら、観客の涙腺と笑いのツボを刺激する。ベタも、お涙も、お約束も、娯楽映画に求められる立派な資質。そこに本シリーズの武器であるノスタルジックなCG映像が絡めば、唯一無二の娯楽映画が、はい一丁できあがり~、である。

東京オリンピックが開催された昭和39年、東京・夕日町三丁目には個性的な住民たちが和気あいあいと暮らしていた。小説家の茶川(吉岡秀隆)は、妻ヒロミ(小雪)と高校生になった古行淳之介(須賀健太)と3人で仲良く生活している。鈴木オートの則文(堤真一)は事業を軌道に乗せるが、住み込みで働く星野六子(堀北真希)の様子に変化が見られ……。

ツウな映画ファンに「ベタ」だの「美談」だのと罵倒されようが、半径100メートルの人情劇に徹する潔さこそが、『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズの真骨頂である。インターネット社会のメリットのひとつは、気の合う仲間たちだけでコミュニティを形成できる点にあるが、リアル社会での“持ちつ持たれつ”が基本の60年代の生活ではそうはいかない。

三丁目の住人たちは、しばしばご近所さんと反目し合いながらも、それでもなお、適度に他者を気にかけながら暮らしている。そこにあるのは、皮膚感覚を伴った「有機的なつながり」だ。善くも悪くも、人が生きるためには「他人」が必要なのだ。

親しみを込めて「ご近所さん」と呼べる存在を失いつつある私たちが、スクリーンから漂う「ピュアさ」や「人情」に懐かしさを感じるのは、致し方のないことかもしれない。いや、あるいは観客は「懐かしさ」を感じる以上に、半径100メートルで何も起こらない毎日の虚しさを埋めてくれる「刺激」を求めているのかもしれないが。

いずれにせよ、『ALWAYS~』シリーズが、今の時代に必要とされている存在であることに間違いはない。70年代あたりまでは手堅く続きそうだが、このテイストで80年代以降を描くのは至難の業だろう。六ちゃんの娘がジュリアナ東京のお立ち台で腰を振る姿。それだけは絶対に見たくない……。

山口拓朗

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