12年をかけて描いた165分(点数 75点)
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この映画は、撮影に12年の年月が費やされている。
上映開始時に6歳だった何ともかわいい少年は、165分後の上映終了時には、耳にピアス、あごに不精ヒゲの生えた18歳に成長している。
姉と両親を含めた4人が、それぞれ12年分、歳を取っていく。
子供たちの成長もさることながら、主人公の母を演じたパトリシア・アークエットの体型が、「ふっくら」から「どっしり」へと変化していく様子もリアルだ。
ふつうの映画なら、似た顔つきの子役と少年役を起用したうえで、効率よく撮影を進めて「はい、おしまい」で済ませるところである。撮影期間は数ヶ月で済むだろうか。
しかし、この作品は、そんな「ふつう」な道を歩むことなく、途方もない時間と労力をかけて、少年とその家族の、おおむね平凡な日常を追いかける。
リチャード・リンクレイター監督はじめ、スタッフとキャストの根気強さに頭が下がる。
なぜ、そんな撮り方をする必要があったのか?
おそらく監督は、虚実の境を消すことによって「時間」の意味を問うたのだろう。
私たちに絡みつくこの「時間」とは何なのか? と。
多くの映画は、魔法を見せる。奇跡を見せる。希望を見せる。夢を見せる。
フィクションの力を借りて、観客を楽しませる。
人々も、それら——魔法や奇跡や希望や夢——を求めて、劇場に足を運ぶ。
しかし、本作『6才のボクが、大人になるまで。』が、心躍る魔法や奇跡、希望や夢を提供してくれることはない。
決して特別とはいえない「時間」を、ただ差し出すだけである。野暮な説明などいっさい加えずに。
そこに描かれる「時間」は、私たち一人ひとりが日常で抱えているものと同種のものだ。
「時間」のなかには、さまざまな「忘却」があり、さまざまな「成長」がある。
小さなものから大きなものまで、バラエティに富んだ「悲喜こもごも」もある。
それとて、私たちと同じだ。
いずれにしても、この映画は、時間をジャッジしない。
時間がもたらす、いかなる現実についてもジャッジしない。「しない」というより「できない」のだ。
だって、それが「時間」の正体だから。
「時間」とは「人生」、つまりは「命」だ。
この映画は、ただただ「命」を見つめる。時間をかけて。
粘り強く、でも、立ち入りすぎずに。
ラストショットで交わされる会話に登場する「一瞬」という言葉。
その言葉に何を感じるかで、この映画の満足度は変わるだろう。
もちろん、その感じ方には、観客自身の人生観が投影されるはずだ。
この映画がスゴいのは「165分かけて描いた12年間」だからではない。
この映画がスゴいのは「12年をかけて描いた165分」だからだ。
(山口拓朗)