◆秘書の目を通して見たトルストイ夫妻の愛と、理想を追う側近たちの葛藤。そこにあるのは、自由を標榜する人間ほど目的の達成のためには他人の自由を制限するという皮肉だ。それは後の社会主義の独裁者に通じるものがある。(60点)
ベッドに伏せる文豪の様子を知ろうと、病院代わりとなった駅舎の周りにできた“記者村”。大勢の報道陣のために脈拍・血圧などの病状が定期的にブリーフィングされる。昭和末期にも日本で見られた光景だが、この物語の主人公・トルストイがいかに大衆の関心を集めていたかを雄弁に語るシーンだ。映画は、彼の秘書の目を通して見た老夫婦の愛と、理想を追う側近たちの葛藤を描く。そこにあるのは、自由を高らかに標榜する人間ほど目的の達成のためには他人の自由を制限するという皮肉。それは後にマルクス主義を拡大解釈し政権をほしいままにした社会主義の独裁者に通じるものがある。
1910年、トルストイの側近・チェルコトフに雇われたワレンチンは秘書としてトルストイ夫婦の元に派遣される。夫婦仲はよいが、妻・ソフィヤは私有財産を否定するトルストイ主義の熱心な信奉者であるチェルコトフと折り合いが悪く、つい肝癪を爆発させてしまう。
貧困や抑圧からの解放を謳うコミューンは、トルストイ自身は莫大な財産と名声を困窮した民衆の助けになりたいと願って作ったのだろう。しかし、チェルコトフらはトルストイを偶像化してより過激にトルストイ主義の純化を図る。もはや息も詰まるほどの厳格なルールが敷かれ、トルストイ本人があきれるほど独り歩きしてしまっている。そんな現状を間近に見ているからこそソフィヤは、少なくとも家族が相続すべき財産だけは保全を図るのだ。トルストイのアイデアを極めようとするチェルコトフと家族を守ろうとするソフィヤ、トルストイはその板挟みになりながらも苦悩を顔に出さず飄々としている。このあたりの微妙な三角関係のバランスに、ワレンチンの恋を絡める展開は口当たりがよい。
やがてソフィヤのヒステリックな振る舞いに耐えきれなくなったトルストイは家出をして、彼女と絶縁する。それでも危篤状態になった時トルストイの唇に登るのはソフィヤの名。無名時代から苦楽を共にし支えてくれた妻の献身を最期まで忘れなかったトルストイの姿は、理性よりも感情が人間を支えているということを思い出させてくれた。
(福本次郎)