きっと自分にもなにか出来ることがあると信じたくなる、観る者の背中をそっと推してくれるような気分になれる作品(点数 85点)
(C) 2011「僕たち」フィルムパートナーズ
医大生の甲太はバイトとコンパに明けくれる日々を謳歌しつつも、どこか日常に物足りなさを感じ、ある日手にしたカンボジア支援のパンフレットを見て軽い気持ちでカンボジアに学校を建てることを思いつく。
この物語は主人公とその仲間たちの尽力によってカンボジアに小学校が立つまでの話なのだが、都会での満たされぬ空虚な日常からカンボジアに学校を 建てるという目標を掲げて次第に生きる希望を持つようになるという再生の物語でもある。
倦んだ日常に死魚の眼になっている甲太の表情からカンボジアの過酷な現状と痛ましい過去と向き合って次第に精彩さを取り戻していく甲太を演じた向井の演技は迫真の凄みがあった。
校舎を建てる資金集めのためにレイヴパーティーを開いたり、恐らくライブドアだと思うが、黒いTシャツの辣腕な印象の経営者に出資を募ったりして、その資金集めの手段に危なっかしさを感じるものの、そこは若さゆえなのかも知れない。
それがのちに出資者の逮捕に引き摺られるように彼らの活動が世間から批判を浴びるようになるのだが「偽善者」と中傷されようとも甲太は動揺すれども諦めない。
映画を観ていて思ったのは偽善者と批判する人間がいたとしても、恐らくその人は偽善のまねごともしない傍観者であるということだ。
たぶん偽善者と批判する人間の多くが、自分が善をなさない人間であることへの言い訳としてこの言葉を使うのではないのだろうか。
甲太は偽善者であることの批判を受け止めてもカンボジアの子どもたちの笑顔を信じ、また募金活動を再開する。
今、日本では奉仕活動に関心を示す若者が増えている一方で、近隣国を憎み内々に籠もろうとする勢力とで二分されている。
そこで一言具申しておきたいのは、狭隘なナショナリズムは自国の利益を優先して考えることを第一としていても、結局のところそれは個人主義の別名であって、困窮している隣人に手を差し伸べない人間は行き詰れば同胞でも簡単に裏切るということだ。
世界は人口が増えて限りあるパイを分け合わなくてはならない時代になっ ている。
だからこそ限られたリソースの争奪をしないためにも甲太の選んだ道は人類の生存戦略上正しい選択だ。
世界は“Love&Peace”というよりももっと切実に人類の紐帯を喫緊の課題として要請しているのである。
この映画を観てそのことに改めて気付かされた。
この映画のタイトルだが、彼らはその行動は、広い視野で見れば軽微な影響力なのかもしれないが、彼らは着実に世界を変えている。
人類の歴史の転轍点に彼らは立ち会っている実感がした。
『僕たちは世界を変えることができない』とは韜晦を含んだ反語だったのだ。
このような作品に出会えたことを喜びたいし、応援していきたいと思う。
(青森 学)