がん患者の闘病を「決して特別ではない日常」として描いた点が新鮮だ。(点数 70点)
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主人公ががん患者でありながら、ユーモアを多分に編み込んで、颯爽と、軽やかに、人生を生きる歓びを活写する『50/50 フィフティ・フィフティ』。「死」や「死別」を悲劇――しばしば安直なお涙ちょうだいドラマの――モチーフとして扱うことの多い邦画とは一線を画す作品である。
ラジオ局で働く陽気で几帳面な性格の青年アダム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、ある日、5年の生存率が50%というガン宣告を受ける。恋人や両親を含めた周囲の人たちが、腫れ物に触るようにふるまうなか、お気楽キャラの親友カイル(セス・ローゲン)だけはいつもと変わらぬ態度で接してくる。ガンを笑い飛ばそうと冷静を装うアダムだったが、徐々に悪化する病状に動揺を隠せなくなり……。
センチメンタルなヒロイズムを押し付けるでも、かといって、不安に苛まれる主人公の気持ちを軽んじるでもなく、がん患者の闘病を「決して特別ではない日常」として描いた点が新鮮だ。スムーズな緩急に加え、喜怒哀楽のサジ加減が絶妙。クスっと笑える場面もしばしばある。
アダムと他者(友達、恋人、両親など)との関係性をリアルに描いた作品でもある。とりわけ、唯一無二の親友とのおかしくも温かい「男の友情」には、大いに泣き笑いさせられた。「死」を前にしても、やはり、その「死を前にした瞬間」というのは「生きている今」以外の何ものでもないのだ。もっとも、そこに気づいたうえで、人が「今を生きる」に徹することは、口で言うほど簡単ではないが。
他のがん患者との交流シーンを盛り込んだのは、アダムに、自身の置かれた立場を客観的に理解させるため。ある患者夫婦が抱擁する姿を見つめるアダムの表情には、「生きる喜び」と「死の恐怖」をセットで悟ったような複雑さが宿っている。説教くささのない巧い演出だ。
辛くて哀しくて怖くて不安でやりきれないのに、スクリーンのそこかしこに友情、親子愛、恋心といった「生の象徴」がキラキラと輝いてる。何よりも、死をテーマにしながらも、全編をユーモアで包み込む演出自体が、映画『50/50 フィフティ・フィフティ』のひとつのメッセージになっている。
新米セラピストの成長を描いたサブストーリーや、初々しいロマンスの先に確かな希望を照らしたラストも、この作品らしいスマートさといえよう。いかなる状況にあっても、人生は「謳歌」するに値する価値がある。アダムと、彼を愛する人々から、そう教えられた。
(山口拓朗)