黒帯 - 福本次郎

◆緑深い山中で、水冷たい清流で、拳の修業に励む男たち。突き、蹴り、手刀、そうした攻撃力を強化するトレーニングは当然するのだが、むしろ独特の呼吸法で精神を高め型どおりに体を動かすことで心の平安を求めているようだ。(50点)

ネタバレ注意! この批評は結末に触れています。

 緑深い山中で、水冷たい清流で、人里離れた道場で、ただひたすら拳の修業に励む男たち。それは決して他人を傷つけるためではなく、自己を高めるための鍛錬。突き、蹴り、手刀、そうした攻撃力を強化するトレーニングは当然するのだが、むしろ独特の呼吸法で精神を高め、型どおりに体を動かすことでヨガのような心の平安を求めているようだ。「空手に先手なし」という師範の教えを守る主人公の生き方は、そのままこの格闘技が目指す平和の思想を表している。

 昭和7年、義龍、大観、長英の3人が師匠の下で日々稽古に積んでいた。そんな時、道場を乗っ取ろうとする憲兵隊が現れるが、叩きのめす。その後、憲兵隊は態度を変え、3人を武術指導者として招聘するが、義龍は袂を分かち、大観は憲兵隊の手先となって道場破りを繰り返す。

 冒頭、憲兵隊をぶちのめすシーンの義龍と大観の空手に対するスタンスが2人の生き方を象徴する。真剣を振り下ろす憲兵を目にも留まらぬスピードで仕留める大観。その踏み込みの厳しさと突きや蹴りの正確さは圧倒的だ。対照的に義龍は相手の真剣を紙一重でかわし、相手の手に自分の拳や手刀を合わせるという形で攻撃力を奪う。結果として、容赦しない大観の拳より、相手に情けをかけるような義龍の拳は敗者に対する侮辱にしかならず、義龍に敗れた憲兵隊長は屈辱の余り自害する。義龍の拳こそ師匠の教えそのものなのだが、武に生きるものなら敗れて命を惜しむようなことはしないだろう。平和的ではあるが残酷な拳だ。

 義龍を助けた百姓家の娘が人買いにさらわれたことから、義龍と大観はついに直接拳を交えることになる。そこから映像は色彩をなくし、ただただ2人の奥義を尽くした死闘を描く。静の義龍、動の大観。やがて義龍も防御的な戦いでは大観を倒せないと悟り、攻撃に転じる。この2人を演じるのは流派は違えども空手の師範クラスの達人。鍛え上げ、研ぎ澄まされた力と技の応報は本物の迫力があり、非常に見応えがあった。その分、ストーリーは付け足しの感が否めなかったが。

福本次郎

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