駆ける少年 - 青森 学

イラン映画が世界的に評価が高いのもこういう映画があるからこそと納得させられる一品(点数 86点)


(C)kanoon

説明がましい台詞が無く、映像で彼らの心情を表現する技術は秀逸で、詩的な趣きさえある。映画の後半で燃え盛る天然ガスの炎を背景に主人公の少年が氷塊を掲げるシーンは幻想的で、短いカットから多くの意味を含んでいるのはさながら一編の詩のようでもある。
この作品では少年たちが疾走するシーンが多く用いられているのだが、生きることの喜びや苦悩を身体で表現しているように思う。走るシーンに人生の意味が凝縮されているのではないのだろうか。

走る行為には多くのポジティブな意味が籠められていて、あらゆるネガティブなものからの逃走と欲しいものを獲得するための原初的な行動という能動的な意味が付随していると思う。
全速力で疾走するさまは往年のサイレント映画を観ているようでもある。
物語の後半で孤児のアミルは自分が読み書き出来ないことに気づき猛然と勉強を始めるのだが、その学習風景が波涛をバックにアルファベットを暗誦したりして映像的に非常にリリックである。この作品が白眉なのは躍動感に満ちた映像にある。
監督の映像センスは素晴らしいと思う。

この映画の世界では文盲がそのテーマであったけれど、日本では1990年代後半からパソコンを使えるか否かで就業機会が制限されたビットディバイドが起きて就業格差が生まれたのだが、現在では楽天とUNIQLOが推進しているように社内公用語の英語化が端緒となって今や二カ国語を扱えるか否かによって就業機会が制限されるようになってきた。ランゲージディバイドの始まりである。
文盲が社会の鬼子とされていた時代を振り返るとむしろ牧歌的な印象さえ持ってしまう。今はもっとタイトな社会人の要件をクリアしていかなくてはならない。厳しい時代になったものだ。

閑話休題。

アミルは空き瓶拾いや靴磨きをして生活費を稼ぐのだけれど、悲壮感というものがまったくない。
たまに仲間と喧嘩をすることもあるけれど、すぐに仲直りしてまた駆けっこやサッカーをして遊んで日々を楽しく生きて行く。
プレスにも書いてあったけれどそこはまさにマーク・トゥエインの小説世界のような自由な気風に満ちている。
パーレビ王朝時代がいかに西欧人のシンパシーを得たのか偲ばれる映像が溢れている。
孤児が不幸というのは近代社会が獲得した一常識に過ぎないのであって、そこには余人には与り知らぬ事情というものがある。
だが、言いたいのは孤児でいるのが良いというのではなく、孤児であっても生き抜こうとする人間のたくましさについてである。
製作年は1985年と古いが、それを感じさせないくらい力のある映像に圧倒されんばかりだ。

青森 学

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