◆リチャード・マシスンの原作を「ドニー・ダーコ」のリチャード・ケリーが映画化。ケリー監督のファン向きの哲学風トンデモSFだ(67点)
ボタンを押せば100万ドル(約1億円)が手にはいるが、代わりに見知らぬ誰かが死ぬことになる。そんな「選択」を迫られた夫婦の物語だ。運命の皮肉を扱ったサスペンス・ミステリーかと思ったら、「ドニー・ダーコ」(2001)のリチャード・ケリー監督らしい、実にマニアックな、哲学風トンデモSFだった。
ノーマ(キャメロン・ディアス)とアーサー(ジェームズ・マースデン)夫妻の下に、ある日、赤いボタンが付いた木の箱が届けられる。その日の夕方、顔の半分が欠けたスチュワード(フランク・ランジェラ)と名乗る男が現れ、ボタンを押せば100万ドルを渡すが、代わりに見知らぬ誰かが死ぬという。期限は24時間だった。
ノーマは高校でサルトルについて教えている。サルトルは実存主義の思想家だ。「人間は自由の刑に処せられている。選びたまえ」と言った。その言葉通り、夫妻はボタンを押すか押さないか、欲望と道徳との間で「選択」に悩まされることになる。しかしその後、物語は「物語の枠組み」を探る物語となっていく。どうもスチュワードと名乗る謎の男は「従業員」で、その上に「雇い主」がいるらしい。会社組織の中で「選択」を迫られるのは、デパートでAの商品を買うか、Bの商品を買うか、という選択と同じようで、そもそも「選択」を迫る神(構造)が前もってあるわけだから、現代資本主義の中の消費社会のパロディーのようでもあり、ポストモダンのパロディーのようでもある。
そこに、NASAやCIAも巻き込んだ宇宙規模の侵略や、死後の世界が絡んでくる。主人公たちは「枠組み」の外に出ようと奮闘する。これはトランスモダンではないか。ラストで夫妻はさらに、「選択出来ない選択」を迫られる。どこまでも「選択」の呪いに苦しめられるのである。
近現代哲学史のパロディーのような展開が面白いかというと、全く面白くはない。他にもリチャード・ケリーらしい様々な仕掛けがあるのだが、「ドニー・ダーコ」と同様、一度見ただけではすべては分からないし、一般の観客の興味をひくものではないだろう。むしろ見どころは、キャメロン・ディアスの中年女らしい言動だったり、顔の半分がえぐれて外から奥歯が見えているフランク・ランジェラのメークや、「ドラキュラ」(1979)を思わせる優雅な身のこなしだったりする。世界が、自分のよく知っているものから、未知のものへと、次第に変容していく恐怖感も、すっきりしないストーリー展開のために心に迫ってこない。
最後まで謎に満ちた独特の世界は、好きな人は好きなのだろう。デヴィッド・リンチやデヴィッド・クローネンバーグと世界観は近いかも知れないが、2人の巨匠のような映像美を見せてくれないのが物足りない。
ちなみに、リチャード・マシスンの原作はショート・ショートといっていいほどの短編で、映画とは結末が全く違う。原作の方が切れ味は鋭いが、余りに短いので比べることは出来ないだろう。
(小梶勝男)