板尾創路の脱獄王 - 山口拓朗

◆これぞキング・オブ"トンデモ"な結末(55点)

 舞台は昭和初期。すでに2度脱獄経験のある囚人、鈴木雅之(板尾創路)が信州第二刑務所に移送されてきた。その後も彼は、独創的な手法を駆使して、次々と脱獄を成功させる。世間は彼のことを"脱獄王"と呼んだが、なぜか彼は毎回脱獄直後に、しかもきまって線路上で捕まってしまうのだ。看守長の金村(國村隼)は、そんな鈴木に興味をもつ。果たして脱獄をくり返す鈴木の本当の目的とは?

 寄り道もなければ、浮気もなし。「脱獄」のワンテーマを貫いた映画だ。見どころはふたつ。ひとつ目は、厳重な警備をかいくぐって、主人公の鈴木がどのようにして脱獄を図るのか? ふたつ目は、なぜ鈴木は脱獄を図り続けるのか? である。

 前者については、大きな脱獄の山場が2度ある。いずれも鈴木が頭だけでなく、そこそこ体を張っている点がユニークだが、脱獄映画にもかかわらず、手に汗握るようなスリルやあっと驚くような衝撃がない。そもそも、仮に鈴木が脱獄に失敗しても、鈴木自身にあまり痛手がないと思われる設定自体にも瑕疵があるように思える。

 一方、後者の「なぜ鈴木は脱獄を図り続けるのか?」については、終盤に挟まれるフラッシュバック映像をもってして、その答えが示される。答えの中身はまだしも、改めてふり返ったときに、ネタばれ以前のストーリー上に、ネタばれとリンクする伏線がほとんど張られていないのが残念だ。そのため、ネタばれ自体が、あと出しジャンケン的な印象を受けてしまう。

 さて、オチはどうなるのかと気をもんだが、この映画は観客の誰もが予測不可能な、これぞキング・オブ"トンデモ"な結末を用意している。ある意味、躊躇なくフルスイングしたズッコケ系ラストの真骨頂。ある目的遂行のために、孤独に耐え、肉体的、精神的な苦痛に耐え続けてきた鈴木の努力が、まさかこんなカタチで……。詰めはていねいにいきましょう――思わぬところでいい人生教訓をいただいた。

 ここまでの90分近くを丸ごと前フリにした、見方によっては、自身のシュールな芸風にオマージュを捧げたような幕切れは、板尾ファンであればしてやったりだろうし、そうでなければ、脱力したまま、あるいは怒りに体を震わせたまま客席から立てなくなる可能性がある。私がどのタイプであったかはあえて書かないが、重厚な演技でドラマを支えてきた國村隼扮する金村が最後につぶやくひとに言は、正直、笑えた。

 ジャンルレスなうえに、どこまでが本気でどこまでが冗談なのか、その境界線が確信犯的にぼかされている本作「板尾創路の脱獄王」は、よくも悪くも板尾監督らしさを凝縮した、人を食ったような作品だ。数回登場する豪快な書体の字幕タイトル、キリストや十字架や観音様を意識したいくつかの描写、時代設定を無視したセルフ挿入歌、それに予告のみに出てくる人物(本編には登場しない)……。この映画を支持する人は、そうした少々思わせぶりで多分にアーティスティックな演出を「ユルさ」「シュールさ」と肯定的にとらえられる人であろう。

 板尾の飄々とした、それでいてつい引き込まれてしまう演技力は評価したい。彼の演技力は、すでに「空気人形」(2009年)をはじめとした映画作品で、いや、TV番組「ダウンタウンのごっつええ感じ」以降のコントなどでも十分にお墨付きを得ているが、本作でもその才能は遺憾なく発揮されている。仮にお笑いの道で食べていけなくなっても、俳優の道で食べていけるだけの実力者だ。監督業のほうはといえば、俳優業ほど視界良好とはいかなそうだが、次回作への期待値は不思議と低くない。

山口拓朗

【おすすめサイト】