◆極北の映画人・山田誠二の現在(2010年3月)時点での代表作。江戸時代、西洋の吸血鬼と日本の妖怪、九ノ一たちの全面戦争という壮大なストーリーを、見事な「見立て」の力で描ききっている(65点)
この映画は劇場未公開映画です。評価の基準は未公開映画に対してのものとなります。
山田誠二監督は極北の映画人といえるだろう。日本唯一の怪談映像専門プロダクションを主宰し、怪談映画や「必殺」シリーズの研究家、小説家、脚本家、コミック原作者、映像プロデューサーと様々な顔を持つ。その作風は非常にマニアック。子供じみたストーリーとチープな特殊効果で繰り広げられる残酷絵巻は、人によっては、あの“最低監督”エド・ウッドにちなみ、「日本のエド・ウッド」と呼ぶほどだ。
しかし、それにもかかわらず、いや、それだからこそ、作品世界は奇妙な魅力を放っている。お金がないから、技術がないからといって、チマチマとしたストーリーにしないところが凄い。物語はつねに壮大で、妄想はファンタスティックなのだ。
本作は、2009年のゆうばり国際ファンタスティック映画祭でも上映された。ゾンビだらけになった江戸時代を舞台に、日本の妖怪や九ノ一と西洋の吸血鬼の全面対決を描いている。時代劇であるし、妖怪やゾンビが登場するので特殊メークも必要だ。どう考えてもとんでもない予算と時間がかかりそうな題材なのだが、驚異の低予算・短時間で作られている。何と、村人たちが隠れ住む洞窟など、舞台のほとんどが、京都の眼鏡屋の二階会議室で撮影されているのだ。
山田監督の脳内の残虐怪奇な妄想をそのままぶちまけたような映像は、「異能」というより、「異脳」の世界だ。そこには、映画を作る楽しさが横溢しているように思う。あの直木賞作家の京極夏彦が、超多忙な中、山田作品の編集や音効を手がけているのも、それが楽しくて仕方ないからだろう。また、ヨーロッパのオタクたちはいち早く山田誠二を“発見”し、「新怪談残虐非道・女刑事と裸体解剖鬼」(2003)と「新怪談裸女大虐殺・化け猫魔界少女拳」(2005)はスペインのシッチェス国際映画祭に正式招待され、ヨーロッパでDVDも発売された。
山田作品の魅力とは一体、何か。私は「見立て」の面白さだと思う。岡田斗司夫さんが著作「オタク学入門」で、日本の特撮と西洋のSFXとの違いについて書いている。西洋のSFXが「ジュラシック・パーク」のようなリアリティーを目指しているのに対し、日本の特撮は着ぐるみの東宝怪獣映画に代表されるような、「嘘みたいにかっこいい」「夢みたいにきれい」という感動を目指しているという。西洋のSFXが写実絵画ならば、日本の特撮は印象派絵画であり、「見立て」であるとも論じている。「見立て」とは、例えば日本庭園で石を山に「見立てる」ことで、それは「ごっこ遊び」でもある。
では、「見立て」を現代の言葉に置き換えるとどうなるか。正確にイコールというわけではないが、「見立て」すなわち「コスプレ」なのではないだろうか。
山田監督は「神戸コスプレコレクション」という、コスプレ大会の実行委員でもある。大会のDVDの一部を見て、私は大変に感銘を受けた。「オタク」と呼ばれる人々の個人的な楽しみだと思っていた「コスプレ」がステージとなり、コスプレをする人々が「コスプレーヤー」として一種の「芸」を成立させていたからだ。それは、「嘘と分かっていながらその嘘の粋を楽しむ」という点で、歌舞伎を見るような面白さがあった。
コスプレはまさに「見立て」そのものだ。自分を「フィクションの世界」の何者かに見立てることで成立している。それは歌舞伎や茶など、日本の伝統にも連なる「ごっこ遊び」なのではないか。特撮との関係で言えば、東宝特撮怪獣たちは、人間が着ぐるみを着て演じているのだから、「怪獣のコスプレ」だとも言える。
山田監督は映画作りを「自分の妄想を形にすること」だと言い、「予算内で自分の妄想を形にするという点で、ボトルシップ作りに近い」と語っている。瓶の中で船の模型を作るボトルシップは、盆栽や作庭、茶道などに通じる「見立て」の芸でもあるのだろう。
眼鏡屋の二階が江戸時代の村の洞窟となり、何となく忍者っぽい衣装を着ただけで「九ノ一」となり、「耳」を付けただけの女性が「化け猫」となる「見立て」の世界。それは「ごっこ遊び」の楽しさを存分に伝えてくれる。最も評価すべきは、山田監督の妄想が、映画製作上の様々な制約に邪魔されず、100パーセント、映像化されているように思われる点だ。
日本の映画界で山田監督が評価されたことは今までなかったし、今後もないと思う。しかし、瓶の中であっても、「世界」は欠けることなく、成立している。いつか、誰かが、その「世界」を発見することだろう。
(小梶勝男)