川のせせらぎ、風のささやき、小鳥のさえずり。自然が織りなす見事なハーモニーがみずみずしい映像にマッチし、ローマの神々と土着の神々を信仰する素朴な人々が織りなすその愛の物語はファンタジーの世界に迷い込んだよう。(50点)
川のせせらぎ、風のささやき、小鳥のさえずり。自然が織りなす見事なハーモニーがどんな美しい音楽よりもみずみずしい映像にマッチしている。太陽の恵み豊かな季節、緑濃い大地と柔らかい空気、まだキリスト教の洗礼を受けていない5世紀のガリアにおいて、ローマの神々と土着の神々を信仰する素朴な人々が織りなす愛の物語はファンタジーの世界に迷い込んだよう。しかし、文語を棒読みするセリフ回しは紙芝居を見ているような躍動感のなさ。映画は楽園にいるような心地よさを与えてくれるが、逆にそれは変化の乏しさでもある。
羊飼いのセラドンは恋人のアストレに浮気を疑われ、悲しみのあまり川に身投げする。気を失っているところをニンフに助けられるが、セラドンはそのイケメンを気に入ったマダムに幽閉されてしまう。何とか脱出したもののセラドンは森で生活を始める。
アストレに「二度と私の前に現れないで」といわれたセラドンは、自分が死んだと思われているにもかかわらず、村に帰るのはアストレの言葉に背くことと頑なに思いこみ、それがアストレへの愛だと信じている。ところがその後僧侶の入れ知恵で女装してアストレに会うことは対抗なく受け入れている。その辺のセラドンの気持ちは、この作品の原作が発表された17世紀フランスではリアリティを持って受け入れられたのかもしれないが、現代の基準ではいかんとも理解しがたい。古典の持つ意味を変えずにもう少し今風の解釈を加えてもよかったのではないだろうか。
僧侶の娘に化けたセラドンはアストレに近づき、正体がばれてはいけないのだけれど、自分がセラドンであることを見破ってほしくもある。このあたり、アストレの鈍感さにやきもきしつつもセラドンはむしろゲームを楽しんでいるようで、ロメール監督はコミカルな演出に走ることなくカメラはふたりのやり取りを淡々と見つめている。そこには、老境に達した巨匠の若さに対する強烈な憧れと、愛をより神聖なものとして昇華する過程で生まれたわずかな嫉妬が感じられた。
(福本次郎)