◆地方の市民病院を一人の医師が変えていく医療ヒューマンドラマ。手術場面のリアルさと、堤真一の演技が素晴らしい(78点)
現職医師である大鐘稔彦の小説を「ミッドナイトイーグル」(2007)「ラブ・ファイト」(2008)の成島出が監督した、医療ヒューマンドラマ。地域医療の問題を真っ向から捉えて、実に見応えがあった。
1989年、地方の市民病院に、米国のピッツバーグ大学で肝臓移植も手がけた外科医・当麻鉄彦(堤真一)が赴任する。まともに手術も行われない市民病院でやる気を失っていた看護師・浪子(夏川結衣)は、目の前の患者を助けたいという当麻の信念と、圧倒的な手術の腕に驚き、次第に仕事への情熱を取り戻していく。ある日、市民病院の充実に力を注ぐ市長の大川(柄本明)が肝硬変で倒れた。命を救うには生体肝移植しかない。そんなとき、息子を脳死と診断された小学校教師・静(余貴美子)が、息子の臓器を使って欲しいと願い出てきた。当麻は、当時の法律では認められていなかった脳死肝移植を決断する。
どんな人にも美点と欠点があるように、映画にも双方がある。本作の最大の美点は、手術シーンの驚くべきリアルさだろう。順天堂大医学部が監修したというその場面は、外科手術を扱ったこれまでの様々な映画の中でも、一、二を争う出来栄えだと感じた。手術中の臓器も見せるが、「本物」そのものに見えた。手術中の患者の開かれた腹の中から、外科医の表情を映すカットもあった。ゾンビ映画などでは見たことがあるが、シリアスな映画では記憶にない。一歩間違えると珍妙な場面になってしまうからだろう。そうならなかったのは、市民病院のセットも含め、病院内部の細かい描写にリアリティーがあるからだと思う
そして、主役の堤真一が素晴らしかった。手術する手つきが、本物の医師そのものに見えたのだ。ここに説得力がなければ、話全体の説得力もなくなってしまう。血管の縫い方を練習するキットを自宅に持ち帰ったという堤は、相当に修練を積んだのだろう。手術場面を監修した順天堂大の医師らも、「本物に見間違える」と舌を巻いたという。堤は「容疑者Xの献身」(2008)でも天才数学者を好演していたように、孤独な天才がピッタリとくる。本作でも、都はるみの演歌を大音量でかけながら手術をするような変人だが、胸のうちに理想の医療への情熱を燃やす天才外科医を、実に生き生きと演じている。手術用の帽子とマスクを付けた場面でも、目と声のトーンだけで見事に演技をしていた。
ストーリーは非常にストレートで、力がある。成島監督は、病院内の場面はアップを多用し、屋外の場面ではロングを中心に撮って、メリハリをつけている。手術場面の血や内臓の赤さ、手術着の緑、病院の壁の白という屋内のカラーと、どんより曇ったり、小雨が降っていたりして、水墨画のように色が感じられない屋外との対比もいい。
ここまでが美点の部分だ。次は欠点について言及しなければならない。まず、「説明過多」だと感じた。物語は看護師・浪子の葬儀の際、息子(成宮寛貴)が遺品の中から日記を見つけるところから始まる。この日記の内容が物語の大部分を占めるのだ。手術場面で、堤演じる当麻が鮮やかな手つきを見せると、(正確な表現ではないかも知れないが)「まるで魔法のようだった」というような、浪子の日記の文章がナレーションとして入るのだ。堤の演技だけで十分にその鮮やかさは分かるのに、そこにわざわざナレーションが被せられると、せっかくの鮮やかさが色あせてしまうのである。そんな「言わずもがな」のナレーションが随所に入ると、場面に集中できない。「ライアーゲーム ザ・ファイナルステージ」(2010)のレビューにも書いたが、このような過剰な分かりやすさは、私にはテレビ的な演出のように思えてしまう。
また、生瀬勝久が演じる悪徳医師のキャラクターが、まさに「絵に描いたような」という表現がピッタリくる過剰さで、作品のシリアスな雰囲気に合っていない。これは生瀬のせいではなく、演出のせいだと思う。
美点と欠点を比較すると、本作は美点が大きく勝っている。成島監督は地域医療という真面目で地味なテーマを扱うに当たり、意識的に「分かりやすさ」を強調し、エンタティンメントとしても成立させようとしたのかも知れない。その代わり、徹底して手術場面のリアリティーにこだわったのだろう。「ディア・ドクター」(2009)のようなストーリー上の「仕掛け」もなく、主人公同様、極めてバカ正直に医療問題に切り込みながら、十分に面白い作品になっている。
(小梶勝男)