◆異色のスポーツ映画でミッキー・ロークが復活(80点)
短くても自分らしく生きることが幸せなのか、自分を殺して長生きすることが幸せなのか。『レスラー』は、人生の岐路に立つ中年プロレスラーの悲哀を描いた異色のスポーツ・ヒューマン・ドラマである。ダーレン・アロノフスキー監督のたっての希望で主演したミッキー・ロークは、自身の転落人生を地でいくこの役柄で、まさかの復活を果たした。
主人公のランディは、80年代にはマジソン・スクエア・ガーデンを満員にしたほどのプロレスラーだ。オープニングのタイトルバックには、当時の派手な新聞記事や雑誌の表紙がにぎにぎしく並ぶ。ところが本編に入ると場面は一転、場末の体育館のわびしいロッカールームの映像に。アロノフスキー監督は紙幣数枚分にしかならないギャラや、綿の飛び出したダウンジャケットで、ランディの現在の境遇を端的に物語る。
ただ、その「哀れな末路」にも思えた場末のプロレス興行が、ランディにとって必ずしも居心地の悪い場所ではないことが、序盤のうちに明らかになってくる。レスラー仲間は結束が固く、長幼の序もそれなりに守られている様子。医療班の手配を含めた主催者側の運営体制もしっかりしているし、何より観客の声援が熱い。
それに対して、一歩リングの外に出れば、トレーラーハウスの家賃は払えず、バイト先の店長にはいびられ、“有名人”に面白半分に声をかけてくる礼儀知らずに悩まされる日々。ランディにとって、リングは唯一、自らの尊厳や存在価値を確認できる場所なのだ。だからこそ彼は、たとえ家賃を滞納しようとも、日焼けサロンやネイルサロンにはしっかり通って、プロレスラー「ランディ・ザ・ラム」としてのアイデンティティを堅持する。
ロッカールームのレスラーたちの生態が、(どれほど現実に即しているのかは知らないが)何とも愉快で興味深い。たとえば興行の開始前にプロモーターがその日の対戦カードを発表すると、レスラーたちは一斉に「段取り」の相談に入るんですね。試合運びの筋書きや、使用する反則技などを、対戦相手と一緒になって決めていく。隣のペアが首攻めで行くと聞きつけた2人が、「俺たちも首だとダブっちゃうな」なんて考えこむ一幕は、あたかもネタがカブらないように腐心する寄席の楽屋の光景だ。
ランディがバンデージの下にカミソリを仕込むシーンもあるが、彼がそれを何に使うのは本当に傑作。「プロレスは八百長だ」とよく言われるけれど、こうアッケラカンとやられると、むしろ「プロレスはショーだ」と称えたくもなる。昔懐かしアブドラ・ザ・ブッチャーのフォーク攻撃も、馬場や猪木は合意の上だったのかしらん?
そんなプロレス界にどっぷり浸って生きていたランディにも、来るべき時がやって来る。デスマッチの後で心臓発作を起こし、今度リングに上がったら命が危ないと医者から宣告されるのだ。来し方、行く末を見つめ直したランディは、スーパーで接客の仕事を始め、絶縁状態だった娘と和解する。なじみのストリッパーとも「客」以上の関係になれそうな気配が漂う(44歳とは思えない姿態を惜しみなく披露したばかりか、自立した女の強さと優しさを存分に表現したマリサ・トメイが素晴らしい)。しかし順調に見えた「第2の人生」は、些細なことから連鎖的に崩れていき……。
あれこれあって恋も仕事も家族も失ったランディは、たったひとつの自分の「居場所」に戻っていく。マイクを握ったランディが、リング上で観客やレスリングへの感謝を述べる姿には、ゴールデン・グローブ賞授賞式でのロークのスピーチが重なった。ボロボロの体で繰り出す大技「ラム・ジャム」は、レスラーというより人間ランディの存在証明だ。よくわかった。お前がそういう選択をしたのなら、俺たちはもう何も言わん。ランディよ、お前はリングの上で死ね。
(町田敦夫)