◆テレビドラマ「ライアーゲーム」の「映画化」というより「続編」。テレビと同じ演出で、「映画」を見た気にはならなかった(60点)
テレビ(ドラマ)と映画との違いは何か。正面から聞かれると困ってしまう。画面の大きさ、製作費、出演俳優、撮影時間、演出、画質・・・。違いはいろいろあるが、どれも絶対条件とは言えない。簡単のようで、実は大変難しい問題だと思う。
本作は、テレビドラマ「ライアーゲーム」の映画化と言えるが、もっと正確に言うと、テレビドラマの「続編」の「映画化」だ。勝てば大金が手に入り、負ければ巨額の負債を負う「ライアーゲーム」の準決勝までは、すでにテレビドラマとして放送されている。本作にはその後の「決勝」が描かれる。完全にテレビの続きなのだ。そして演出もテレビとほとんど変わらない。とすると、果たして「映画」として作る意味はあるのだろうか。
他人をすぐに信じてしまう女子大生・神崎直(戸田恵梨香)のもとに、「ライアーゲーム」決勝戦の招待状が届く。ゲームの舞台となる孤島に訪れた神崎を、天才詐欺師・秋山(松田翔太)ら、これまでのゲームを勝ち上がってきた面々が待っていた。今回のゲームは「エデンの園ゲーム」。テーマは「信じ合う心」。神崎は秋山の助けを得て、プレーヤーたちの心を一つにしようとするが、裏切りが続出する。
ゲームの内容はよく考えられていると思う。カット数の多さ、派手な効果音、俳優たちの大仰な演技など、すべてテレビドラマ通り。多分、あえてテレビの通りにしたのだろう。ドラマのファンにとっては、全く違和感なく〝映画”を見ることが出来るからだ。しかし、これをいわゆる「映画」だと思って見ると、戸惑いと失望を覚えるに違いない。スピーディーな展開で飽きないが、主人公を含め、登場人物たちの描き方が、余りに薄っぺらいのだ。
テレビドラマを見ていないと、秋山がなぜ神崎を助けるのか、よく分からない。刺客として正体不明のプレーヤーXが登場するのだが、その意味も曖昧だ。
かつて「フレフレ少女」の渡辺謙作監督に、テレビと映画との違いを尋ねたことがある。渡辺監督は、映画の場合、観客は画面に集中しているので、余り「描きすぎる」のはよくないと語った。描きすぎると、集中している観客が耐えられなくなるので、もうちょっと描きたいと思う手前で止めるのだという。
落語や芝居、コンサートなどの生の舞台を思い浮かべてもらえばいいかも知れない。寄席で非常に楽しめた落語が、テレビ中継で見ると余り面白くない場合がある。寄席では、観客は舞台に集中しているので、話の「間」やちょっとした仕草、会場の空気などにも敏感に反応する。そして、演者に乗せられながら、同時に自ら「乗る」のである。テレビ中継の場合、観客の集中力は舞台までなかなか届かない。そこで、テレビ独特の演出が必要になる。見ている者を「乗っている状態」、すなわち、偽の躁状態に導くような演出である。落語の場合なら、観客の笑い声を大きく響かせ、笑っている観客の顔のアップを挿入し、演者の表情を大写しにする。ひどい場合は、緩急の「緩」の部分はカットして、「急」のつるべ打ちにする。こうなると、寄席で見た印象とはまるで違って見える。それはテレビにとっては必要な演出なのだが、果たして「落語」といえるのか。
映像作品でのテレビ的な演出とは何か。一概には言えないが、一例としては、必要以上にカットを割り、何かあるごとに俳優たちのアップと大仰な音楽(効果音)で強調する手法がある。観客の集中を期待せず、常に「注意」を喚起するのだ。だが、これでは登場人物の心情の流れを描く余裕は生まれない。従って、心情は「説明」することになる。説明の上に、さらに説明を重ね、描写も演技も過剰になっていく。こうした作品を、我々は数多く見てきたような気がする。「描写」されず、「説明」される心情には、共感は出来ない。
テレビドラマ「ライアーゲーム」のファンなら本作を楽しめると思うし、こうした作り方を否定するつもりもない。だが、どうしても「映画を見た」という気にはならなかった。
(小梶勝男)