人種差別問題を真正面から扱った映画だが、現代でも根強く残る問題であることに気付かさせられる一品。(点数 83点)
(C)2011 DreamWorks II Distribution Co., LLC. All Rights Reserved.
ジョン・F・ケネディが大統領に就任していた時代のミシシッピー州の州都が舞台なのだけれど、ミシシッピー州が映画の舞台になると多くの場合、人種差別がテーマになる。失踪した公民権活動家の行方を捜査するうちに根強い人種差別の壁に阻まれる捜査官の葛藤を描いた『ミッシシッピー・バーニング』(1988)、『評決のとき』(1996)も舞台は架空の街ではあったが設定ではミシシッピー州にあった。今作もその法則に漏れず、低賃金で働く”ヘルプ”と呼ばれる黒人のメイドと雇用主である裕福な白人女性との確執のはなし。
人種差別がテーマになるとこの手の映画にありがちなのが、公民権運動とか人権とか社会正義とかにシンボル化されていくのがお約束なのだけれど、この映画ではそういう肩肘の張ったものにはならなく、あくまでメイドとして使役される等身大の黒人女性のため息のような視線の低さに親近感を持てた。
差別に対するソーシャルな怒りよりも、有色人種である前に「個」としての人間性を踏みにじられた彼女たちの静かな怒りがより深い共感を呼ぶ。
人種差別の名目は個人よりも先に一集団の属性を忌み嫌うことなのだが、否定されるのは紛れも無く一個人の尊厳なのだ。有色人種である日本人の私が差別されたとして、私の中の日本人が傷つくのではなく、日本人である前に私自身の尊厳が傷つくのである。
日本人が差別されたとして、自分の中の日本人の血が疎まれていると個人のパーソナリティを切り離して考えれば傷はまだ浅いのかもしれない。だが、差別される者は民族の属性を厭われても、それと不可分である個人の尊厳もまた否定されることになるから二重に苦しむ。
この映画ではそんな白人の無思慮な視線に耐えつつも、社会正義が実行されないことへの怒りに昇華される以前の、彼女たちの嘆息が心に刺さった。
この作品に新味があったのは、彼女たちの受ける差別されることの不満が、大上段に構えることなく彼女たちの目線で語られることである。
アメリカ南部に住む白人間に潜む根深い差別意識を克明に描写する本作だが、このような差別意識はたった50年前には当然のこととして白人間で共有されてきたのは現代と比較すると隔世の感を禁じ得ない。進歩主義者にしてみれば、社会情勢は漸次改善していると認識している。だが、50年前にあったこのような旧弊が現代でもかたちを変えながら今でも命脈を保っているような気がしてしまうのだ。人の価値観や心裡というのはそう簡単に変わることがない。この映画に登場する白人女性を一笑に伏せないところがまた、この問題の根の深さを再認識させられる。
(青森 学)