◆文句のつけようのない横綱相撲(97点)
『ヒックとドラゴン』は、いくらほめてもたりないほどの傑作であるが、それは様々な要素が高いレベルで融合された、すなわち完成度の高さによるもの。何かが突出して良いのではなく、すべてがハイクオリティ。まさに死角のない横綱。事件前の朝青龍みたいなものである。
バイキングのリーダーの息子ヒック(声:ジェイ・バルシェル)は、偉大な父とは正反対の貧弱で気弱な少年。大切な家畜を襲う害獣のドラゴン族を狩らねば男とはみなされないこの村では、いつも半人前扱いされている。それが最大のコンプレックスだったヒックは、あるとき大怪我で飛べない最強のドラゴンを発見する。だがやさしいヒックはどうしても止めを刺すことができず、世話をすることによって友情を育んでいくのだった。
ドラゴンとバイキングの終わりなき戦いが続くファンタジー世界観。両者の戦いに終止符を打つのは誰なのか。
アメリカという国は、かつて先住民族たるインディアンを女子供にいたるまでほぼ絶滅に等しい数まで虐殺することによって、その反抗の声を完全に押さえ込んだ。情けをかけ、中途半端に残せばどんな禍根を将来に残すか、彼らは最初から知っていたのである。宗教勢力を政治から完全に一掃するため、織田信長が容赦ない焼き討ちを行ったのと同じだ。一見非道にみえたとしても、それが将来の自民族の平和につながる事もある。政治家には、ときにそれを断行する厳しさが必要というわけだ。
そんなアメリカが、2010年にはこのような映画を作るまでになった。『ヒックとドラゴン』が伝えようとしているのは、建国当時から続く「皆殺しによる平和」「敵を圧倒するアメリカ」の精神ではない。
殺しあってきた敵と、共生の道を探る。少年ヒックと最強のドラゴン・トゥースのコンビを架け橋に、両種族を平和へ導こうとする挑戦は、現実の国際政治が抱えるあらゆる紛争問題へのひとつの回答である。これまでも似た思想の映画は数多くあったが、ハリウッドのメインストリームにこうした作品が並ぶようになってきたのは注目すべき事柄といえるのではなかろうか。
そうした深く斬新なテーマ性を横に置き、たんなる少年向けのダイナミックなアドベンチャーとして見ても本作はたいへんレベルが高い。ジェイソン・ボーンシリーズでリアルなアクションシーンを盛り上げたジョン・パウエルによる音楽は、それを上回るほどのアドレナリンを分泌させる。勇壮かつ雄大なスコアは、クライマックスの悲壮なる戦いの感動を二倍にも三倍にも増してくれる。
この戦いのシークエンスは、単に映像を派手にする小手先の演出ではなく、十分に張られた前半の伏線を回収する事によって盛り上げてゆく。子供だましではない、本気の脚本力を味わうことができる。子供向けの映画でこういう事をやる。アメリカのアニメーションの凄み、映画文化の深みを感じられるはずだ。
本作は3Dだが、割増料金目当てにとりあえず3Dにしてみました的な「駄3D」が量産される中、そうとう良い部類に入る。『ヒックとドラゴン』に関しては、無理をしてでも3D上映館に出かける価値がある。トゥースが初めて飛立つシークエンスの迫力、感動は3Dならではのものがあり、必然性が感じられる。
もし就学前のお子さまに3Dデビューさせたいのなら、2Dで十分なトイストーリーよりも私はコチラをお勧めする。小さい子供たちは、なにも理解していないようで意外と本物を感じ取る力がある。なるべくいいものを見せてやるのが親の務めというものだ。
定石を崩したラストシーンは、ドリームワークス社の「俺たちはディズニーとは違うんだ」との意思、意地を感じさせる秀逸なもの。プロデューサーや幹部らの間に波紋をおこし、意見収集試写会で議論を重ねた上での採用。その決断は大正解だったと私も思う。
そこまで、脳みその表面だけで「共生、差別撤廃って大事だよねー」とヘラヘラ見ていた私のような観客を奈落のそこに突き落とす衝撃。これを見ることで、共生という口当たりの良い言葉の裏に隠された重い責任と覚悟、本当の意味での対等というものがどういうものか、観客は学ぶのである。
ヒックとトゥースの関係はこのラストをもってようやく均等になり、プラマイゼロになる。考えてみれば、これ以外の結末はありえない話であった。
唯一、日本版キャストの声になじむまで時間がかかり、前半のコメディーシーンを十分に楽しめなかった点が残念だが、『ヒックとドラゴン』がこの夏のダントツナンバーワン作品である事に間違いはない。これほどの映画作品を見られる(子供たちに見せてあげられる)機会はそうそうないから、幼い男の子がいるお父さんは、とくに見逃さぬよう。
(前田有一)