ネイビーシールズ - 青森 学

本物の兵器を使用したガンアクションと戦闘シーンに目を奪われるものの、シールズの掲げる正義について考えてみるのも良いだろう。(点数 77点)


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最初に断っておくが、この映画は1990年に公開されたチャーリー・シーン主演の
『ネイビーシールズ』とは全く違う作品 だ。リメイクではない。別物の映画
だ。90年の『ネイビーシールズ』は役者が演じて映画的な映画だったが、今作
は本物の隊員を起用して フィクションの垣根を越えてよりリアルな戦争アク
ションに仕上がっている。

アメリカの正義。イスラムの正しさ。映画ではテロリストの卑怯さ姑息さを描写しているが、これがイスラムの世界そのものと断定は出来ない。映画の持つ強力な説得力が印象操作をしているようで額面通りに受け取ることには抵抗がある。またイスラムの殆どが穏健に暮らしている人たちばかりで原理主義というものこそが危険なことは承知しておかなくてはならない。それはキリスト教原理主義についても同様の危うさがある。中庸という言葉があるが一部の人にはそれが潔さのない思想と決めつけられることがある。中途半端なのは良く無いと。ではそのどちらかにしましょうという結論に落ち着く。精神的に潔癖な人ほどその考えに取り憑かれ易い。

実弾を使い、登場する火器・兵器は全て本物というミリタリーマニアには垂涎の映画と言えるだろう。そういう武器や兵装に目がいくのがこの映画の普通の愉しみ方なのだろうが、私には、映画の中で時折挿入される隊員のモノローグの方が気になった。
映画を売る立場の人はこのリアルな戦闘シーンを呼び物としたいのだろうけれど、私にはシールズの人たちは戦闘シーンの凄さを観てもらうよりも、自分の信念をより知って貰いたかったと思う。

テロリストは目的の為には手段を選ばないが、それはアメリカの軍隊もまた同じだと思う。その選ぶ方法の程度の差はありこそすれ、アメリカも自国の正義を実行する時、必要とあらば、他国の安全を掛け金として差し出すに違いない。アメリカ政府は自国の利益を最大化するように制度設計されているのは昔から自明のことだったからだ。だからこの特殊部隊の信念をそのままり受け取るのは日本人にとってはちょっと早計のような気がしてしまう。ならば自衛隊は国民個人の為に奉仕するのかと問われればそれも違うと言えるだろう。自衛隊は国のために存在すると理解しておくのが大禍は無いと思う。シールズの隊員ももっと抽象化された正義のために殉じているのだ。

映画では終盤で、隊員がある詩人の詩を詠んで、宗教や信条による差別をしてはいけないと説くが、映画の中では異教徒を虱を潰すように冷静に精密な機械のごとく射殺しているので、果たしてどこまで本気で思っているのかは疑いたくなった。ただし、シールズに銃口を向ける者にはそんな忖度を抜きにして躊躇なく応戦するように訓練を受けているのだろう。モノローグでは厭戦的な事を言っているのに、まるで行動が伴っていないのは、やはり命の奪い合いでそんな悠長なことはしていられないのが戦争の現実なのだ。だが、そのリアリティを引き換えにして映画的なドラマは犠牲にされている。そこはオリバー・ストーン監督の『プラトーン』の方がずっと”映画的”ではあった。この映画はリアリティを追求するあまりフィクションを可能な限り排除したフィクションとリアルのアマルガムと評することが出来る。

アメリカという国の総意ではおそらくはネイビーシールズが掲げる正義ではないだろう。だが、彼らは曲がりなりにもその正義に命を張っているので一聴に値すると思う。しかし皮肉なことだが、これはテロリストにも同じ理由を当て嵌めることができるのだ。
この映画に登場するテロリストは国籍もさまざまで、現代の紛争の火種はイデオロギーの対立から信仰の自由を賭けた戦いになっている。
フィリピン人のテロリスト(モロ民族解放戦線?)が居て、アメリカと強い同盟関係で結ばれているフィリピン政府なのに、その国土の一部がイスラム圏であるという現実が、アメリカのテロ対策上でのアキレス腱なのかも知れない。

シールズは相当なエリートだから、志操堅固なうえ、その主張に筋が通っていて一貫しているのだが、軍隊の末端を見れば、アブグレイブ捕虜収容所での虐待や、最近でいえば、自爆テロで上半身が吹っ飛んだテロリストの遺体と記念撮影したりとモラルの欠けた兵隊も多くいて、シールズの連中には備わっていたモラルが軍隊すべてに徹底されているという訳でもない。ざっくばらんに言えばこれはネイビーシールズの活躍を喧伝するプロパガンダ映画だが、犯行声明を朗々と読み上げるおしゃべりなテロリストだけでなく、それに対抗する彼らの弁明に耳を傾けてみても良いではないか。

青森 学

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