翻訳とは全身全霊を賭けて取り組む行為であることが解るドキュメンタリー(点数 85点)
ドストエフスキーの大著を何冊もドイツ語に翻訳した翻訳者スヴェトラーナ・ガイヤーの文芸活動をつまびらかにするドキュメンタリー。
息子を見舞う母としての顔、孫達に囲まれて幸せの表情を見せる祖母としての顔。
そして時を超えてドストエフスキーと対峙する真摯な翻訳者としての顔。
どれも八十代とは思えない精気に満ちた表情だ。
ガイヤー女史がいかに自分の人生を全力で生きてきたのかが窺える。
深くしわが刻まれた手に彼女が生きてきた人生の年輪を見てしまう。
生きるためにナチスに協力したこと、またナチスが彼女の窮地を救ったことによるジレンマは彼女に深い苦悩を残す。
ナチスドイツとソ連という二つの国の狭間で引き裂かれるアイデンティティをカメラが浮き彫りにしている。
その懊悩を象徴するのがしばしばクローズアップされる深くしわを刻んだ彼女の手である。
その手で“5頭の象”と呼ばれるドストエフスキーの大著を翻訳し続けてきた。
子供にも恵まれ週末には多くの孫が彼女の自宅を訪れホームパーティの準備を手伝う。
ドイツで得た穏やかで安寧な生活と先の大戦での心の傷痕が対比するように交差し彼女の激動の人生を浮き立たせる。
ガイヤーは語学の才能をナチスに見込まれ戦争を生き延びる事が出来た。
だが、自分が幸運にも生き残れた反面、救えなかったユダヤ人の友人を悔やみ今でも深い後悔となって彼女の心に影をひく。
彼女にとって翻訳とは多くの命の犠牲の上に成り立つ贖罪の行為であり有機的に結合した人生の一部なのである。だから彼女の翻訳は非常に重い意味を持つ。
翻訳は言葉だけでなく文化も含めて移植するので高度なスキルを要するように思う。
“細部にこだわらず全体を理解すること”
それが翻訳の極意であり、パラフレーズとなってさまざまな事例を挙げて説明される。
それは教会の構造を理解する場合にも用いられ、彼女の哲学にも繋がっている。
“不正の正当化に意味がない”
“知性は行動に理由を与えるために存在する”
これは彼女が『罪と罰』を翻訳した際に導き出された知見なのだが、それらのメッセージもパラフレーズし、リフレインしてまるで文字の織物のように言葉が綾なす。
ガイヤー女史が指摘するように言葉(text)は織物(texture)なのである。
このドキュメンタリーを俯瞰すると彼女の予言通りに作品自体が祝福の言葉で紡がれそして織り込まれた一反のテクスチャなのである。
その再帰的な映画の構造が作品に深い余韻を残している。
(青森 学)