巨匠ロメロのゾンビ・モキュメンタリー。ホラーの枠を超えて社会派映画の域に達している。(75点)
大学生ジェイソンらは森の中で卒業制作のホラー映画を撮影中。だが各地で蘇った死者のニュースを聞き、慌ててトレーラーで家路を目指す。ゾンビ化した人々に襲われながらも、すべてを手持ちカメラで記録するジェイソンだったが…。
ゾンビと言えばロメロ。ロメロと言えばゾンビ。それくらいロメロはゾンビ映画の第一人者だ。傑作「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」以来、数々の亜流映画が誕生したが、やっぱり本家本元は完成度が違う。かつてはショッピング・モールでさ迷うゾンビたちの姿に消費社会への批判を込めたが、今回は、ネット社会のツールをフル活用。手持ちカメラ、パソコンや携帯の画像、YouTubeなどの情報を溢れさせ、映像メディアの功罪を訴えている。
恐怖と笑い、同時代性と社会批判をわずか95分できっちり描く充実の出来栄えが嬉しい。ロメロ本人がゾンビ化してしまったかのような風貌を見るたびに本気で不安だったのだが、心配無用。彼はまだまだ吼える気だ。何より、学生映画監督の映像を通してゾンビを描くというアイデアが冴えている。低予算を逆手にとって、いかにも素人くさい映像をスピーディーに作り出し不安感を煽りまくった。カメラを通してみる血や死の記録が少しずつリアリティを失っていく一方で、次々にネットにアップされるゾンビ映像にすさまじい数のアクセスが殺到。恐ろしいのは、誰もが表現者をきどった傍観者になることなのだ。
主人公ジェイソンはすべてを記録して真実を伝えると決意するが、そもそも情報化社会における真実とは何だろう。もはや公共メディアは機能せず、個人の主観映像ばかりが氾濫するインターネットの、どこに信憑性の基準を置けばいいのか。そして映像メディアが本当にやらねばならないこととは。こんなディープな問いかけを、腐れモンスターのゾンビを使ってやってのける荒業が天才的だ。しかもその怪物は、自分たちと同じ人間のなれの果てという、激辛の皮肉が効いている。ゾンビ化は誰にでも起こりうる事態なのだ。
こんなシリアスな社会批判を血しぶきの中で展開しつつ、ユーモア精神を忘れてないところがナイスである。病院の医者とナースがペアでゾンビ化している几帳面さもウケるが、ゾンビの頭を真っ二つに切断したり、強気のテキサス娘が元仲間のゾンビに対してブチ切れるなど、気合の入った黒いギャグが満載だ。特に、耳が不自由な老人と共に農家の納屋で戦うくだりは、爆笑必至。そうかと思うと、プールに沈むゾンビたちをアーティスティックなビジュアルで演出し、退廃美で観客をシビレさせる。完全に崩壊した社会の中で、人間性を保つ方法などありはしないとのロメロの諦念が、ユーモアの中にじわりと染みてくる。
ポイント・オブ・ビュー(主観映像)で描かれたのは世界の終焉のはじまりだ。逃げる人間にも追うゾンビにも、安楽の地はない。ラスト、痛烈な絶望感が漂う“救う価値があるのか?”との言葉こそこの映画のすべてである。新境地のゾンビ映画で、本家の意地をみせたロメロ御大。巨匠の雄叫びを今こそ聞こう。
(渡まち子)