ソラニン - 山口拓朗

ソラニン

© 2010 浅野いにお・小学館/「ソラニン」製作委員会/写真:太田好治

◆映画が語るのは、夢と現実の板挟みにあいながら、悩み、傷つき、振り子のように心を揺らす若者たちの「命」そのもの(75点)

 スタジオ練習を欠かさないバンドマンにしてフリーターの種田(高良健吾)。会社になじめずに入社2年目で辞表を提出した芽衣子(宮崎あおい)。ふたりは将来に不安を感じながらも、寄り添うように同棲している。あるとき、芽衣子に背中を押してもらうカタチで、種田は新曲「ソラニン」を創作。デモ音源をレコード会社に送るが、会社側の反応は厳しかった。追い打ちをかけるように種田の身に不幸がふりかかり……。

 この映画に登場する若者たちは、夢と現実の狭間に立ち、自分は何者なのか? どこへ行くのか? と自問自答をくり返している。彼らの悩みは「バンドの未来」という姿を借りて表現される。アマチュアバンドのうち実際にデビューできる確率はどのくらいだろう? 1/500くらいか? では、プロで5年、10年と食べていける確率は? 1/5000、いや1/10000くらいか? はっきりした数字は分からないが。

 彼らがデビューを目指してがむしゃらに頑張る姿は、かつて本気で夢を追いかけたことのある人や、現時点で夢を追い続けている人の共感を誘うだろう。彼らが大きな壁にぶつかって挫折する姿にもまた。人生のモラトリアム期間で直面しがちな「不確かな未来」というこの映画のテーマは、多くの人が思春期に抱く不安の根源ではないだろうか。それは存外人間にとって普遍的なもであろう。

 「夢を捨てないこと」あるいは「夢を捨てること」。そのどちらが偉いとも正しいとも有益とも賢明ともこの映画は語らない。この映画が語るのは、夢と現実の板挟みにあいながら、悩み、傷つき、振り子のように心を揺らす若者たちの「命」そのものだ。いくつかの喪失が浮かび上がらせるのは、彼らに時間と心を無条件に共有できる仲間がいることの価値、そして、絶望の淵でなお光を目指す再生力の価値にほかならない。私が感動したのは、彼らが涙を流したときではなく、その涙をグっと堪える姿を見たときだ。

 本作が初長編となる三木孝浩監督の采配は、とくに序盤から中盤にかけて、仲間たちの信頼関係を描くプロセスでの丁寧さが光る。シリアスとユーモアを分けることなく、同一シークエンスに違和感なく共存させる難しい演出には、才能豊かな若手俳優たちが絶妙の演技力で応える。アップを多用して若者たちの心象を捉えた叙情的なカメラワークも悪くない。近藤洋一(サンボマスター)や桐谷健太らが扮するバンドメンバーのマンガ的なキャラクターも、ピュアな主人公ふたりの引き立て役としてではなく、モラトリアムを生きる“個”として独り立ちしている。しかしお前ら、いいヤツらすぎるゾ。

 強いて言うなら、物語を収斂させる芽衣子の「ステージ」の見せ方が凡庸だ。というか、ステージに上るという特別な状況に挑む彼女の気持ちに、もう少しテンションをもたせてもよかったように思う。あるいは種田と同じマイクパフォーマンスを芽衣子にさせるとか。また、エンディングで流れるASIAN KUNG-FU GENERATIONの「ムスタング」がよすぎるため、同じくアジカンの後藤正文が作曲した「ソラニン」の印象が薄まった点もウイークポイントか。エンディングにアジカンの曲を用いるのいいとしても、せめて「ソラニン」とは異なる曲調の楽曲を採用すべきだった。

 作品タイトルでもある「ソラニン」とは、「ジャガイモの芽などに含まれる毒の一種で、多く摂取すれば中毒症状を起こすが、その植物が成長するのに不可欠な成分でもある」という意味らしい。自然界であればソラニンの含有率はこの世の偉大な何かが決めるものなのだろうが、人間の世界では、自分自身でソラニンの含有率を決めているようなところがある。若い時分はとくにその「毒」を多く盛りがちだが、その毒がもたらす青春という名の中毒症状は、その人にとって生涯の宝物(ときにトラウマ)となる。浅野いにおが描く同名の人気漫画を原作とする映画「ソラニン」は毒に迷い、毒と闘う同世代への応援歌であると同時に、すっかり世間擦れした“かつての同世代”をセンチメンタルな気分にさせてくれる1本だ。

山口拓朗

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