ゼロの焦点 - 小梶勝男

◆広末涼子はミスキャストだが、犬童監督が見せる演出の「奇手」は素晴らしい(73点)

 戦後64年が過ぎて、昭和も遠くなった。我々の年代なら僅かにリアリティを感じられるストーリーも、今の若い世代にどれだけ実感として伝わるのか疑問だ。松本清張の原作自体が、もはや時代遅れなのかも知れない。さらに、本作は犯人が途中で分かってしまい、推理ものとしての面白みは余りない。むしろ、犯人の動機に焦点が当てられる。それが社会派推理と言われる所以だ。動機がテーマだとすると、クライマックスは回想場面になりがちだ。映画としては構成が難しい。この難問に、犬童一心監督は驚くべき「奇手」で答える。それは実に鮮やかな手で、本作の面白さは全てそこにある。

 昭和32年、禎子(広末涼子)は、鵜原憲一(西島秀俊)と見合い結婚する。鵜原は、仕事の引継ぎのため新婚の妻を残し、東京から勤めていた金沢へ出張するが、そのまま帰らなかった。禎子は夫の消息を求めて金沢を訪れるが、その先々で殺人事件が起こる。やがて、鵜原が取引していた会社の社長夫人(中谷美紀)や女性事務員(木村多江)が、秘密を握っていることが分かってくる。

 物語は禎子の独白で進む。夫が失踪して不安でいっぱいの禎子の心情を表現するように、映像も登場人物も、どこか現実からずれている。昭和30年代前半の町を再現するため、韓国で撮影が行われたようだが、やはり日本の風景とは違う独特の雰囲気がある。雪に覆われた金沢の町を汽車が煙を引きずって走る場面など、はっきりCGと分かるように、わざと演出されていると思われる。アニメーションのような独特の絵になっているのだ。社長一家が住むグラスハウスの奇妙さ。社長夫人を演じる中谷美紀の大芝居と、原色のファッション。赤いコートの女。どれも夢の中のように、奇妙な生々しさと、不思議なずれを感じさせる。禎子が訪ね歩く海辺の猟師町の寂れた風景や、日本海の激しく荒れ狂う波が、一層ムードを盛り上げる。

 本作のクライマックスは、中谷美紀と木村多江の「対決」場面にある。だがそれは、実は広末涼子の「想像」として描かれるのである。さらに、その「想像」の中で、中谷と木村の「回想」が描かれる。想像の中の回想。一番大事な場面をこんな入れ子構造で描くのだから、「奇手」としか言いようがない。これを話法の混乱とするレビューを見かけたが、そうではなく、考えに考えた末の奇手と見るべきだろう。動機が最も重要なテーマであるという松本清張作品の特色を最大限に映像で表現したのだと思う。

 この場面は素晴らしい。中谷は過去を捨て未来に生きようとする。木村は過去に殉じようとする。いわば中谷と木村の対決は、「未来」と「過去」の対決になっている。その場面から列車に乗っている広末の場面へ、まるでブライアン・デ・パルマ作品のように画面が切り替わっていくことで、「未来」と「過去」が広末という「現在」に「焦点」を結んでいく。すべてが広末の主観である「想像の中の回想」でなければ、この未来と過去と現在が切り結ぶサスペンスは描けない。映画全体のテーマにして、最大の見どころはここにある。原作の古臭さも乗り越えるほどの、実に映画的で面白い、ワクワクする演出だった。

 この場面が余りに良かったため、その後の広末と中谷の対決場面が蛇足に思えてしまう。話を主人公の方に戻すために、広末と中谷の対決は必要だったのだろうが、そもそも、広末がミスキャストだ。大芝居の中谷、薄幸の役がぴったりの木村に比べ、どうしても見劣りしてしまう。

 松本清張作品の映画化では「砂の器」が有名だが、あの作品の「親子の道行き」の場面も、実は丹波哲郎扮する刑事の「想像」と、加藤剛扮する音楽家の「回想」が混然一体となったものだった。あれは「想像」と「回想」が並列の関係だったが、本作は入れ子の関係になっているのが興味深い。

 映像に比べ、音楽の使い方が余りにベタで気になった。外国の曲が流れる場面で、その訳詞をテロップで見せるのはカラオケみたいで興醒めだった。「オンリー・ユー」もラストの中島みゆきの歌も、盛り上げるどころか、映画の邪魔になっていたように思う。

小梶勝男

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