◆荒廃した大地を旅する父と子のロード・ムービー。淡々としてストイックな終末譚だ。(65点)
文明が崩壊し人類のほとんどが滅亡したアメリカ。僅かに生き残った人々が互いの人肉を食らう狂気の生き物と化す中、かすかな希望を求めて南を目指す父子がいた。父は幼い息子に、人間のモラルと生きる術を教えるが…。
原作は、現代米国文学の雄コーマック・マッカーシーがピューリッツァー賞を受賞した同名小説だ。映画の舞台は文明を失って10年以上たった世界。なぜ世界が終ったのかという説明はいっさいない。人間に残された選択肢は、餓死か、自殺か、生存者に食い殺されるか。すでに理性を失くした者たちの蛮行だけがはびこる世界で生きる意味とは何だろう。主人公は息子に「私たちは“火”を運んでいる」と言う。この火とは、希望の灯(ともしび)の意味だ。物語は、一組の父子の旅をヒロイックな要素を排除して淡々と追っていく。
“善き者”であろうとする父が息子に教えるのは、どれほど空腹でも自分たちと同じ人間を食べたりはしないというルールだ。道徳、理性、誇り。それを息子に何としても教えなければならない。さらに、他者だけでなく自分に対しても非情であれということも。父が息子に自殺の方法を教える様が痛ましい。
ヴィゴ・モーテンセンと、息子役のコディ・スミット=マクフィーの、枯れた熱演が胸にしみる。父子の旅は悲痛なものだが、それでも時にはささやかな癒しの場面も。豊富な食料を見つけて喜ぶ場面もさることながら、自動販売機に残った缶コーラを初めて飲む息子が「おいしい」と目を輝かせる場面は、まるで闇夜に見る明かりように安らぐ瞬間だ。生まれて初めての飲み物コーラを見て「泡が立つんだね」と無邪気に驚く場面は泣けてくる。立ち上がっては消える泡にも似て、この息子は、はかなげで、無垢な存在だ。父子が共に歩いてきた道を離れて海を見た後、彼らには思いがけない運命が待つことになる。
暗く重い雲に覆われた空、寒冷化が進んだ寒々しい空気、ボロをまとった野獣のような人間たち。こんな荒れ果てた画面の中に、ロバート・デュバルら、名優たちが一見それとはわからぬほどの姿で登場してくる。全員がホームレスのような有様の中、回想の中の母親役シャーリーズ・セロンは、あまりにも美しい。ただ、この母親が心を病み自ら死を選ぶ展開には、不満が残る。父親はなぜ強引にでも妻を引きとめないのか。妻と運命を共にするより息子との先の見えない旅を選ぶその訳に、何も説明はない。観客に委ねたのかもしれないが、ここは説得力のある理由がほしかった。
近年、数多く作られている終末映画の中でも、本作のドライなタッチは群を抜く。T・S・エリオットは、その詩「うつろな人間」で、人類が終末を迎えるその時を“これが世界の終わり方だ。世界はパーン!ではなく、メソメソと泣いて終わる”と綴っている。派手でも乱暴でもなく、ゆっくりとフェイドアウトしていく終焉にはヒロイズムもロマンティシズムも存在しない。この映画には人類滅亡というビッグ・イベントでさえも冷淡にみつめる達観したまなざしがある。主人公には、何ら特別の能力はない。その証拠に父も子も名前がない。だがそれ故に普遍的な“私たちの物語”になりうるのだ。
(渡まち子)