張りぼてとハッタリがリアリティを産むという映画の本質を喝破しつつ、三谷監督の自虐的なセンスもまた適度にスパイスとなっている。作り手と観客の間にある「お約束」を見事なメタファーとして昇華する脚本がすばらしい。(70点)
上質の芝居を見ているようなセリフの間が笑いを紡ぎだし、そのテンションは終盤まで落ちない。張りぼてとハッタリが撮影と編集次第でリアリティを産むという、映画の本質を見事に喝破しつつ、自分の作品も同じ土俵から生まれたという三谷監督の自虐的なセンスもまたいやみにならない程度にスパイスとなっている。嘘をつくならとことんつき通し、だまされるなら最後まで気分よくだまされていればいいという、映画の作り手と観客の間にある「お約束」を見事なメタファーとして昇華する脚本がすばらしいできばえだ。
ギャングのボスの愛人に手を出したことがバレた備後は、幻の殺し屋・デラ富樫を探し出すことを条件に命を救われる。備後は売れない俳優・村田に、映画の撮影と偽ってデラを演じさせ、ボスの前に連れて行く。
殺し屋など見たことないのに、いかにもというそれらしい演技でデラになりきる村田。カメラに撮られていると思い込み、過剰な所作で猛烈にアピールするあたり、少しでも目立ちたいのに出番に恵まれない俳優の哀しさがにじみ出る。それでもこれがチャンスと信じ込み、備後の言うことにはきちんと従って、プロの気概も見せる。ギャングたちも映画やテレビでしか見たことのないような村田の殺し屋ぶりに気圧されてデラと信じ込んでしまうあたりが絶妙のテンポ。コメディの真髄を見せられているようだ。
映画は、備後が感じる「村田についた嘘がバレはしまいか」という心配と、「村田の正体がボスに知れるのでは」という恐怖を巧みに織り交ぜることで適度な緊張感を持たせ、クライマックスには村田が連れてきた撮影所スタッフのトリックがギャングや本物のデラ富樫までを見事にだます。つまり、監督=備後・俳優=村田で作られた映画を観客=ギャングたちが見るという、一般的な映画興行の構造を一歩引いたところから俯瞰しているのだ。いくらリアルに作っても、映画なんて所詮は虚構なんだよという監督の高笑いが聞こえてきそうなエンディングだった。
(福本次郎)