◆主張の偏りはまだしも、事実の曲解はいかがなものか(40点)
ときどき、映画好きを沈黙させ、映画にはさして関心はないが社会問題に過剰に反応する人々の声をはりあげさせる作品にお目にかかるが、本作はまさにそれである。喧々諤々とした7月3日の日本初公開から1ヶ月余りが過ぎたが、騒がしかったのは最初だけで、その後はあっさりと夏休み大作映画の嵐に吹き飛ばされてしまった格好だ。日本の食文化に一方的に噛み付く内容に、観客の頭には「おおきなお世話だ」との思いがよぎったに違いない。
映画は、1960年代の人気ドラマ「わんぱくフリッパー」の調教師リック・オバリーが案内役となって、和歌山県・太地町の立ち入り禁止区域の入り江で行なわれているイルカ漁と、イルカの虐殺、イルカ肉偽装と水銀含有問題などを、隠し撮りという扇情的な方法で描いていく。終盤にはその隠し撮りが最大の力を発揮したショッキングな映像も登場する。表現の自由、映画館側の利害、隠し撮り、環境保護、食文化、イルカ漁。さまざまな問題が見えるが、映画には、相反する立場の人間両方を取材する公平性は皆無で、そのことが逆に洗脳に近い編集技術の上手さと怖さを浮き彫りにする。自分が好ましくないと思うものを徹底的に排除しようとする思想がいかに危険なものかということも。
本作は、まず「イルカ漁は悪」という主張ありきで作られていることは言うまでもない。通常はまず取材して知った事実から結論へ至るものだが、この映画は最初から結論があって、それに好都合な映像をつなぎ合わせて、予め用意した結論にもっていく。過激な環境保護団体シー・シェパードによる活動から、太地町の入り江で行なわれる漁の隠し撮りを敢行するくだりは、ほとんどスパイ映画のノリで、苦笑した。だが、主張の偏りはまだしも、事実の曲解はいかがなものか。たとえば、劇中に、イルカ漁を擁護する発言をする水産庁の役人が登場するが、オリジナルでは彼は「その後解雇された」とのテロップが入っている。だがそれは事実無根。イルカの断末魔の叫びを“目撃”した女性ダイバーが落涙するシーンは映画の白眉なのだが、今ではイルカの映像と涙の映像は別々に撮られたものだと判明している。何もない海を見て唐突に泣けるとは、たいした“女優”だ。リック・オバリーの語りや演技は情緒的なもので、記録映画に不可欠な正確なデータはほとんど表示されない。もともと米国の映画作りには編集でなんとかする風潮があるとはいえ、これでは“いくらなんでも”だ。
ドキュメンタリーが事実をそのまま伝えるものではないことは、映画ファンならばある程度分かっている。だが、アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞受賞作という冠が付くとなると話は別。しかも太地町の人々には反論する手立てが、現時点ではほとんどない。無理を承知で言わせてもらえば、太地町が自分たちのイルカ漁を正しく描く作品を作って公開し、「ザ・コーヴ」と並べて上映した上で、人々の意見を問うのが最も正統な方法ではないだろうか。
(渡まち子)