グラン・トリノ - 町田敦夫

◆イーストウッドの「いじわるじいさん」が下す勇気ある決断(80点)

 息子や嫁に遠慮会釈なく憎まれ口を叩く。孫娘のへそピアスに不機嫌なうなり声を上げる。イタリア系の床屋と口汚く罵り合う。『グラン・トリノ』でクリント・イーストウッドが演じるのは、そんなポーランド系の偏屈ジジイ、コワルスキーの役だ。この「いじわるばあさん」ならぬアメリカ版「いじわるじいさん」の描き方がユーモラスで、起承転結の「起」の部分はクスクス笑い通し。コワルスキーは隣家のアジア系移民にも胡乱(うろん)な目を向けるが、ふとしたきっかけでその家の姉弟、スーとタオを救うことになり、思いもかけない交流が始まっていく。

 コワルスキーとタオとの関係が徐々に深まっていく「承」の部分が温かい。目標のない日々を送っていた移民の少年は、渋々コワルスキーとつき合ううちに、アメリカ社会のルールや男の生き方を覚えていく。偏屈ジジイはタオをこき下ろしながらも、新たな「息子」を一人前にすることに久方ぶりの生き甲斐を見出していく。世代間の、あるいは異文化間の望むべき交流の形がそこにある。

 日本の観客が最もカルチャーギャップを感じるのは、コワルスキーが再三愛用の銃を持ち出し、侵入者を追い払ったり、少女を不良から守ったりすることだろう。だが、全米ライフル協会のPR映画のようにも思えた作品の基調が、途中から微妙に変わってくる。タオにつきまとう不良グループをコワルスキーが銃でおどした結果、隣家は銃撃され、スーは暴行を受けるのだ。

 正直なところ、この「転」の部分はいささか不出来。コワルスキーの行動は軽率だし、“監督イーストウッド”に演出してもらえなかった“俳優イーストウッド”が木偶の坊のように座っているだけというシーンも見受けられる。だが、それらを補って余りあるのが最後の「結」の部分である。

 コワルスキーはある衝撃的な方法で自らの命を張り、タオとその一家を守るのだ。家族とさえも心を通わせられなかった老人が、人種の違う隣人に注ぐ大いなる勇気と優しさ。そんな人の縁(えにし)の不思議さと、死期を悟ったコワルスキーの哀切極まる決断が、観る者の胸を締めつける。『ランボー 最後の戦場』に使われた「ムダに生きるか 何かのために死ぬか」という宣伝コピーは、むしろこの『グラン・トリノ』にこそふさわしい。

町田敦夫

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