時代に翻弄されながらもひたむきに武の道を進む武術家の生き様に心を動かされる(点数 85点)
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素朴な疑問なのだが、東北地方出身の宮宝森(ワン・チンシアン)と宮若梅(チャン・ツィイー)親子が話す北京語と葉問(トニー・レオン)の話す広東語(?)がお互いに通じるのは映画だからなのか?
現実ではそんなことはあるのだろうか?やはりこれは演出上の問題であるのだろう。
個人的に好きだった八極拳がストーリーにあまり絡んでおらずそこは残念だった。
八極拳は打撃が主体の拳法で格闘ゲームのバーチャファイターで結城アキラが使う拳法が八極拳だったのが有名だった。
『大賢は市に隠れる』というが、葉問と手合わせする手練の誰もが芸妓だったり下男だったりと中国には市井の人にこそ超人が居るという通念があるのだろうか。
プレスにも書かれていたけれど、たしかにそういう文化観があると思う。
最近、谷崎光氏の『中国てなもんや商社』に始まる”てなもんや”シリーズを読んでいるのだが、著書で指摘されている中国人に敷衍する積極性や”オレこそ一番”と思う少々自信過剰のエゴはそんなところから来ているのかもしれない。
中国人の卑屈にならないところは尊敬する。
中国は一念発起すれば誰もが英雄になれる国だ。
現実はそうでもないが、そういった信憑があるからこそ、その苛烈な競争社会で耐えていくのである。
そんな市井に宗師(グランドマスター)は存在するのだ。
義和団の蜂起もそういう背景があったのではないだろうか。
この作品でもやはり日本軍の侵略は避けては通れないようで、日中戦争の影響で葉問の娘が餓死したことがナレーションで説明されるがやはり日本人として心が痛む。
石原元都知事は、日中戦争は侵略戦争では無かったと考えているようだが、PKO活動みたいなものだと思っているのだろうか。
侵略戦争の対義語として正しい戦争を想像しがちだが、そもそも正しい戦争というものは無い。
侵略戦争を否定すれば、正しい戦争が正当化されるというのは詭弁である。
だが、中国共産党も国策で日本の中国侵略の咎を外交の切り札として使っているので、日本人にもそれがポジショントークであることはばれている。
中国共産党は別に平和の重要性を説くために日本の侵略戦争を批判しているのではなく日本を牽制するためにそのカードを切りすぎているのが問題なのだ。その認識のずれが日中の世論で軋轢を産み出している。
この作品に限らず中国映画は日本の軍部を批判する作品が多数あるが、前述するようにそれが必ずしも平和を希求する意図で作られた訳ではないのが残念だ。
それは日本にも言えることで戦時中にあった愛国映画がこれに該当する。
共産党が支配する中国では今でもいわゆる愛国映画が製作されているのである。
そこは割り引いて観るのが良いのだろう。
(青森 学)