進歩したクローン技術は、心まで再生できるのか。クローンがそのオリジナルの人の記憶をたどるうちに背負った苦悩まで追体験する。しかし、メリハリのない演出とエピソードは、クローンの葛藤を十分に描いているとはいえない。(30点)
進歩したクローン技術は、肉体を再生できても、心まで再生できるのか。無機質で静謐な映像は、人間をモノとしか考えない科学者の思考を象徴しているよう。彼らは人の脳をデジタルデータに変換することはできても、人格や精神活動まで正確に転写することなど不可能であることに気付かない。映画は、クローンがそのオリジナルとなった人の記憶をたどるうちに、オリジナルが背負った苦悩まで追体験する過程を通じて、この技術の在り方を問う。しかし、メリハリのない単調な演出とヤマ場の乏しいエピソードの連続は、クローンゆえの葛藤を十分に描いているとはいえず、退屈な印象を免れない。
事故死した宇宙飛行士・耕平はクローンとして蘇る。しかし、クローンの中にかつて耕平が幼い時に死なせてしまった双子の兄弟への思い出が強く蘇り、クローンは苦しみ始める。やがて病院を抜け出したクローンは耕平の死体を発見、子供のころに暮らした家を目指して歩き始める。
クローン技術の問題点はさておき、倫理的に考えてクローンに対して「おまえはクローンだ」と教えることには疑問を感じる。たとえ遺伝子情報や過去の記憶を共有していても、一度別人格を作ってしまったら、それは見かけは完全に同じでも中身は違っているはず。肉体を失ったオリジナルの人格をクローンに移植するのならばまだ理解できるが、一卵性双生児のように、クローンでもコピーした時点からすでに別人格になっていると考えるべきだろう。脚本はそのあたりの理論的な詰めが甘く、クローンの心理的彷徨を荒涼とした風景で象徴するにとどめている。
自責の念に押しつぶされたクローン1号に代わって再生された2号は、精神的にも安定し、オリジナルと変わらない完成度になる。そして1号を埋葬した後、耕平の魂と共鳴し、内面も耕平そのものになる。宇宙服を背負ったまま葦原を進むクローン2号の姿は、双子の弟とクローン1号の魂という重荷を背負わされているようで哀れだった。自我が芽生えた時点で、いくらクローンでももはやオリジナルとは別人格であることをこの映画の作者はきちんと認識しておくべきだった。
(福本次郎)