◆老人のセックスをリアルに、そして温かく描く秀作(70点)
人生何が起こるか分からない。何かとんでもない事があっても、それはもう仕方の無い事として受け止めるしかないのだろう。ドイツ人映画監督アンドレアス・ドレーゼンの『クラウド9(英題:CLOUD 9)(原題:WOLKE 9)』では、主人公インゲ(ウルスラ・ヴェルナー)は60代にして新たに性の目覚めを体験する。彼女には30年間連れ添ってきた愛する夫ヴェルナー(ホルスト・レーベルク)がいるが、他の男性に情熱を見出す。彼女には何故突然そうなったのか分からない。それは突然「起こってしまった」のだ。
インゲは家で服の寸法を直しながら、夫と穏やかに暮らしている。ある日彼女はカール(ホルスト・ウェストファル)という70代の男性に直しを頼まれていたズボンを持ち、それを彼の家に届けるが、そこでインゲとカールは流れるままに裸になり、愛を交わしてしまう。その後インゲは、再び夫のいる普段の暮らしに戻り、何事も無かったかの様に生活を送ろうとする。
カールを忘れようとはするものの、それが出来なかったインゲは、結局また彼に会ってしまう。普段の生活では感じられない開放感を知り、彼と過ごす事に心地良さを覚えてしまったからだ。また、ヴェルナーとは全く違うカールと過ごす時間は何もかもが新鮮で、彼女は久しぶりの「恋」を楽しみ始める。それと同時に、夫への後ろめたさもあり、「ヴェルナーに言わなければ」という想いがインゲの中で膨らみ出す。
本作では老人達のセックスをリアルに描いている。それゆえ、彼らのたるんだ皮膚、よぼよぼの手足がスクリーン上に映るのだ。老人の性を描くというだけで、特殊なカテゴリーに入れられてしまう恐れがあるため、それはドレーゼン監督にとっては本作は実に挑戦であったが、作品の空気感がやさしく、人間描写が細やかで、老人のセックスが温かいものとして映し出される。また主人公インゲを演じるウルスラ・ヴェルナーの感情表現が巧みで、彼女の素晴らしい演技に圧倒されるのも本作観る醍醐味の1つであろう。
インゲは予期せぬ出来事に動揺してしまい、前夫の間にできた彼女の娘に相談を持ち掛ける。冷静な娘は母を応援し、ヴェルナーにはカールとの事は言う必要はないと助言する。ヴェルナーには申し訳ないが、客観的にこの恋を見ると、おそらく多くの人が娘に賛成するだろう。60代と70代の恋、それでいてセックスも可能なんて素晴らしい事ではないか。老年期だからこそ、彼らの恋を見守りたい気持ちが芽生える。
ドレーゼン監督は本作を単に老人のセックスをリアルに描く作品としては制作していない。それ以外にも老夫婦に訪れた転機やインゲの決断等も本作の中では非常に重要な要素なのだ。またインゲの心の移り変わりも非常に興味深く、彼女はカールに恋をして以来、60代にも関わらず恋する乙女になってしまう。1人で彼女が恋に悩んだり、周りが見えなくなってしまう姿は歯痒く、女はいくつになっても恋をしてしまうと乙女になってしまうのだなと妙に納得させられる。
インゲにはヴェルナーという夫がいる。そえゆえに彼女がやっている事は不倫。不倫は聞こえが悪いが、それも還暦を越えると、何か違うものに変化してしまうのかもしれない。それは純粋な恋であり、老いてもなお、互いに魅力を感じるというのは掛け替えのないものの様に感じられる。これはもう楽しむ他ないだろう。インゲに訪れた出来事は、結局「出来事」であり、彼女にはどうする事も出来なかった印象を受ける。それは美しくもあり、同時に、やはり始まってしまったものは止める事が出来ないという切なさもある。また何かを得れば、何かを捨てざるを得ないという理不尽さについても改めて思い知らされてしまった。
(岡本太陽)