若いウェイトレスが望まない妊娠で自分自身に目覚める温かい物語。沢山のパイが主人公の思いを伝えてくれる。(70点)
田舎のダイナーで働くジェンナは、パイ作りの名人。嫉妬深い夫アールに悩まされながら、半ばあきらめたように単調な日々を送っていた。ある日、妊娠が発覚し病院に行くが、担当医と恋に落ちてしまう…。
1本のハートフルドラマがサンダンス映画祭で大絶賛。大作・話題作に混じってボックスオフィスを賑わせた。地方の小さなクラブチームが、大都市のビッグクラブを破るかのような快進撃で、映画ファンの注目を集めたから痛快である。そんな話題の映画とは、ド田舎でショボい毎日を送る主婦のお話だ。主人公ジェンナはまだ若く美しいのに、人生すっかりあきらめモード。それというのも異常に嫉妬深い夫アールに何から何まで支配されているからなのだ。パイ作りの名人の彼女が隣町のパイ・コンテストに出たいと頼んでも「俺だけのためにパイを焼け!」と怒鳴って町を出ることさえ許さない。米国南部の田舎町には今でもこんな男尊女卑的な空気が残っているのか、目ぼしい企業もないシケた町でどんより暮らす人々が、リアルに見える。そんなジェンナの変化は、大嫌いなはずの夫の子供をなりゆきで身ごもったことだ。とりあえず行った産婦人科で担当医と衝動的に不倫してしまう。これが彼女を自立に導く起爆剤になるからおもしろい。
女性にとって結婚・妊娠・出産は、人生という長いリーグ戦の中での特別な試合。望まない妊娠は、ジェンナの足元に来たイレギュラーなバウンドのボールだ。だが、彼女はその球をむやみに蹴り出したりせず、タッチライン際で活かしてみた。ここにジェンナの勝機がある。でも、家出を企てても失敗するような不器用な彼女のゲームプランが全く読めない。暴力亭主をブチ殺す?不倫相手と逃避行?もしや宝くじにでも当たるのか?!それは映画を見てのお楽しみだが、攻められっぱなしのゲームの中で奮闘していたジェンナが、鮮やかなカウンターを決めて得点すると言っておこう。それは女性にだけ許される激変の果ての力強いシュートだ。不幸なのは全部亭主のせい!などと考える自分にサヨナラした時、本当に目指すべき夢のゴールが見える。もちろんそこにはジェンナを陰で支えてきたダイナーのオーナーや、何でも相談できる同僚たちの優しいアシストがあったことを忘れちゃいけない。ジェンナの選択と映画ならではの甘い追加点に、試合を見守った観客は惜しみない拍手を送るだろう。
物語を引き締める名審判の役割を担うのは、劇中に登場するパイの数々。パイに想いを込める妄想気味のヒロインは、さまざまな材料を使いながらユニークな名前を付ける。恋するチョコパイ、憎き亭主パイ、アールの赤ん坊なんていらないパイといった具合だ。どのパイもカラフルだが、いかにも大味なアメリカ風。全てがおいしそうとは思えないのだが、それもまた人生を反映して頷ける。さしたるスター俳優もいない低予算映画を、ハートウォーミングな物語に仕上げたのは、女優で監督のエイドリアン・シェリーである。実は彼女は、2006年、不幸なトラブルに遭遇し、40歳の若さで他界した。「ウェイトレス」は、彼女の日本での監督デビュー作にして遺作になってしまった作品なのだ。現実は残念な経緯になったが、彼女が映画で残したのが希望に溢れた愛すべき物語だったことを、どうしても付け加えておきたい。
(渡まち子)