強烈にワケがわからない。でもそれを快感に変えるのがリンチのすごいところだ。映画とはいったい何なのか?ということまで考えさせられる。(80点)
女優のニッキーは新作映画の主役に決まる。いわくつきの不吉な映画の撮影が進むにつれて、ニッキーは映画のストーリー同様に相手俳優と不倫関係に。さらに彼女は、映画と現実、本物と妄想の区別が付かなくなっていく…。
デビッド・リンチの映画のたしなみ方は判っているつもりだ。だが、本作は桁違いにイカれている。女優のニッキーは、主演の二人が撮影中に殺されたといういわくつきのポーランド映画のリメイクを撮影中。この状況設定を基本に、次々と不条理ワールドに突入するという大筋を、事前に把握していても、激しい悪夢的な世界にめまいを覚えた。物語の世界は5つに大別できる。女優ニッキーの世界、リメイク映画「暗い明日の空の下で」、オリジナルのポーランド映画「47」、死んだポーランドの女優ロスト・ガールの世界、うさぎ人間の部屋。これら5つが何の脈絡もなく入り乱れて展開する。さらに、謎の場所インランド・エンパイア(内なる帝国)の存在がある。ただ事ではない。そう直感したとき、この映画の矛盾や疑問を追及しようという考えはきっぱり捨てた。
理解を放棄した瞬間に、映像と音の快感がドッと押し寄せてきた。まず「イレイザー・ヘッド」を思わせる導入部、冒頭のレコード針の重低音のノイズからシビレる。次に極端なクローズアップで歪みきった顔をさらすローラ・ダーンの女優魂にほれぼれする。見えてきた映画の世界は、一見、普通の日常とその裏に潜む悪夢の空間。な?んだ、リンチ映画では見慣れた世界じゃないか。あぁ、これで安心だ。自分はリンチの映画を満喫している!という思いにひたる幸福感はひとしおである。判らない。それでいいのだ。
そもそも映画を“判る”必要なんてあるのだろうか。才能があり、それを知っている偉大な監督は、映画を作るときストーリーに依存などしない。映画に対する強い思いをそのままフィルムに焼き付けるだけなのだ。その念写が作家性となって立ち上ってくる。観客を不安にさせるような負荷をかけることで、映画として成立しているとも言えよう。意味が判らなくても、この映像を見ていたい。本能のレベルでそう思わせるところがリンチという映像作家のすご味だ。ただ、ほとんどの観客は、映画を何らかの言葉で確認して安心したがる。だからこそ、映画評論や映画紹介などという仕事が成り立っているのだが、判らないというのも極めて自然な反応なのだ。こんなことを言うと、自分の職業を否定するようで落ち込むが、本当のことだから仕方がない。どうしても頭と言葉で理解したいというのなら、この映画は、殺されたポーランド人女優の魂が永遠に見続けている夢を描いているとでも言っておこうか。ただ、重ねて言うが、そんな解釈に意味などほとんどない。「インランド・エンパイア」を見るということは、デビッド・リンチの脳内ワールドに入って漂うことなのだから。
(渡まち子)