トッド・ヘインズが豪華出演陣で描くボブ・ディラン映画(98点)
ミュージシャン、俳優、詩人等、多くの肩書きを持つアーティスト、ボブ・ディラン。ユダヤ人一家に育った彼は多くの詩や音楽に影響され、大学を中退し、ミュージシャンを目指した。そしてブルース、フォーク、ロックンロールとジャンルを変化させながら時代と共に人々に影響を与え続けて来た。60年代にはビートルズやストーンズ等に影響を及ぼした。また昨年発表された最新アルバム「モダン・タイムズ」では自身初となるビルボード初登場No.1を獲得した。
そのボブ・ディランについて、2002年あたりから映画化の話が上がっていたのだが、その映画『アイム・ノット・ゼア』が異色のドラマとして先日公開に至った。監督はイギリスの映画監督トッド・ヘインズ。代表作にジョナサン・リース=マイヤーズを一躍スターにした『ベルベット・ゴールドマイン』やジュリアン・ムーア主演の『エデンより彼方に』等がある。そしてこの2作品で高い評価を得た。
この映画はボブ・ディランの半生を映画化した、言わば、伝記映画。この作品がどうして異色かというと、6人の俳優がそれぞれ違う名前で6人のボブ・ディランを演じるのだ。その6人は、ディランがバンドを従え始めた時期を演じるケイト・ブランシェット(ジュード役)、映画の中で1度演じた事のある、流れ者ビリー・ザ・キッドとしてのディランを演じるリチャード・ギア(ビリー)、ディランが初めてニューヨークに着いた1961年にジャーナリストや友人に話した彼自身の虚構の物語の主人公を演じるマーカス・カール・フランクリン(ウッディ)、プロテストシンガーとしてのディランを演じるクリスチャン・ベール(ジャック)、映画スターとしてのディランを演じるヒース・レジャー(ロビー)、そして詩人ランボーとしてのディランを演じるベン・ウィショー(アーサー)である。6人それぞれがボブ・ディランのある一面をフィーチャーしている。
共演者も豪華である。シャルロット・ゲンスブール、ジュリアン・ムーア、ミシェル・ウィリアムズ、デヴィッド・クロス、ブルース・グリーンウッドが名を連ねている。コリン・ファレルやエイドリアン・ブロディも6人のボブ・ディランとして候補に挙がっていたそうだ。またこの『アイム・ノット・ゼア』は今年のヴェネチア国際映画祭でも女優賞と審査員特別賞を受賞している。特に、この映画ではケイト・ブランシェットの素晴らしさが滲み出ている。今まで数々の賞を受賞してきている彼女だが、今回の役が今までで一番女優としての凄みを感じさせられた。
この映画の中で6人の俳優がボブ・ディランを演じるが、それぞれ全く違うキャラクターに見える。6人は全員名前も年齢も人種さえ違うボブ・ディランで、ディランの中のある性質に注目してそれぞれが演じ分けている。これは伝記映画で、おそらく普通ならば、ミュージシャンとしてのボブ・ディランのストーリーになるだろう。しかし、ケイト・ブランシェット演じるジュードとクリスチャン・ベール演じるジャック以外は皆ミュージシャンではない。俳優や詩人としてのディランを通して彼の多面性を今一度わたしたちは知ることとなる。そしてそれはわたしたち自身にもいろんな側面があるということを喚起する。
また伝記映画ならば、今までわたしたちが知らなかった事が明らかになる謎解きの部分もあるはずだろうが、この映画の中ではそれがない。ただボブ・ディランの音楽や彼の生き方等を基に作られている。わたしたちが知る範囲内で映画が構成されている故に、作品自体が非常に素直だ。
わたしたちはこの映画から特に新しいボブ・ディランについての情報を得ることはない。それ故に、ただのディランファンが作った映画かと思ってしまう人もいるかもしれない。しかしながらこの映画はファン映画の域を越えている。むしろ最良の歌と語られる言葉と共に文学的ですらあるのだ。ディランが6人もいて、それぞれがバラバラに入れ替わる。観る者は監督トッド・ヘインズの脳の中でも覗いている様な感覚に陥るかもしれない。『ベルベット・ゴールドマイン』や『エデンより彼方に』ではあまり感じられなかった感覚だ。映画を利用した彼の精神の解放とも言えるかもしれない。彼の芸術性やビジョンが白昼夢の様に目の前に広がる。
この『アイム・ノット・ゼア』はまさに監督トッド・ヘインズとボブ・ディランの作り上げた芸術作品。映画の中で「Meaningless is holy(無意味なことは神聖である)」という言葉が出てくる。この映画はメッセージを含んだ作品ではない。ただ優れた感性を持った人を優れた感性の持ち主が描いた映画だ。映画、絵画、音楽等、多くの優れた芸術作品がメッセージ性を含んでいないのと同じ様に、この作品もその1つに数えられるだろう。『アイム・ノット・ゼア』は後世に名を残す神聖な映画である。
(岡本太陽)