ヒトラーの演説を指導するのがユダヤ人という強烈な皮肉。虚実を取り混ぜた知的な悲喜劇だ。(80点)
敗戦濃厚の1944年のドイツ。うつ病を患い、自信を喪失したヒトラーを鼓舞するため、宣伝大臣ゲッペルスは、ユダヤ人のグリュンバウム教授を強制収用所から呼び寄せる。総統の演説指導を命じられ戸惑う教授だったが…。
歴史上の独裁者は皆、精神を病んでいたいう見解は有識者の間でもよく語られる。極悪人のヒトラーが、うつ病で心身ともにボロボロ、やる気がなく、自室に引きこもっているというコミカルな設定が、この物語の機動力だ。ナチスきってのアイデアマンのゲッペルスは、そんな総統を何とかせねばと、世界的な俳優のグリュンバウムを利用することを思いつく。総統が最も憎むユダヤ人に演説を指導させ、怒りによってかつての威厳と力強さを取り戻させようという迷案だ。すでに自分たちのリーダーを半分見限っておきながら、なおも操ろうとするゲッペルスは、今で言う仕掛け人。こういう人物が最も怖い。
そのゲッペルスがグリュンバウムに言う言葉がふるっている。「大衆の心をつかむ。あなたと私の仕事だ」。家族の命を救うことを条件に、ヒトラーの演説指導者となったグリュンバウムは、自分の皮肉な状況に激しく悩む。知り合ってみればヒトラーという男は、トラウマを抱えた孤独でみじめな人間ではないか。だが彼はまぎれもない大量虐殺者。ヒトラーを殺すチャンスは何度もあるのに、それができないジレンマが主人公を苦しめる。夜中にグリュンバウムの寝床に忍び込み、寂しいと泣き言を言うヒトラーを、枕で窒息死させようとしてもめる夫婦の姿など、まさに悲喜劇だ。だがそんなドタバタの瞬間にも、膨大な数のユダヤ人が殺されている。状況は、文字通り、笑い事ではないのだ。
それでも映画は、ヒトラーとナチスをからかう事を止めない。ハイル!の敬礼にうんざりする姿や、面子や手続きに振り回されるバカバカしさを笑い飛ばしてしまう。ヒトラーの新年のパレードの演出は、映画のセットのようなハリボテなのだから、もはや狂った猿芝居と言うしかない。だが、愚行と並行してあったのがジェノサイド(大量虐殺)なのだ。歴史の暗部はいつも矛盾に満ちている。死体の山の上にある黒い笑いは、クライマックスの演説でマックスに膨らみ、予想を超えた形で破裂した。大局的な正義と家族の命という個人的な切望に引き裂かれた主人公の決心とは?最後の最後に彼が見せる勇気ある行動は、この作品のニュートラルな批判精神を見事に炙り出している。
演説の天才ヒトラーには実は演技指導者がいたというのは本当だ。悪のカリスマも作為的に作られていた事実に“もしもそれがユダヤ人だったら”というフィクションの香りをふりかけたことで、歴史の地獄は壮大なジョークに変わった。冒頭にこんな言葉がある。「この物語は真実だ。だが、あまりにも“真実すぎる”ため、歴史の本には登場しない」。顔から血を一筋流した困惑顔のアップではじまり、唐突にして崇高なラストを迎えるまで、恐怖と笑いが分かちがたく絡み合っている。主役のウルリッヒ・ミューエは惜しくもこれが遺作となった。この名優の静かな気迫が、間違いなく映画を高みに引き上げている。
(渡まち子)