望むものは分っている女と、望まないものは分っている女が、人生の答えを探して彷徨する。人を愛し、傷つけ、求めていたものと違う結果に自分もまた傷つく。そんな恋愛遍歴を重ねる女たちを通じて、男と女、女と女の関係を問う。(50点)
南欧の太陽が大胆にさせるのか、女たちは新しい恋と刺激を求めて心の命じるままに動く。自分の望むものは分っていながらも道徳的な価値観から行動を規制しようとする女と、望まないものだけは分っているが本当に自分が手に入れたいものがわからない女が、人生の答えを探して彷徨する。人を愛し、人を傷つけ、そして求めていたものと違う結果に自分もまた傷つく。そんな恋愛遍歴を重ねる女たちを通じて、男と女、女と女、さらに結婚とは何かを問う。
ヴィッキーとクリスティーナはバルセロナにバカンスにやってくる。そこでフアンという画家に不思議な街に誘われて同行、体調を崩したクリスティーナの代わりにヴィッキーがフアンと一夜を共にする。バルセロナに戻るとクリスティーナはフアンと同棲を始めるが、そこにフアンの元妻・マリアが戻ってくる。
ナレーションに多くを頼り女たちの繊細な気持ちのゆらぎを描かないので、直情的な彼女たちは単なる尻軽女しか見えない。常に頭は性欲に支配され、その状態を「恋」という言葉に置き換えているだけだ。唯一ヴィッキーの婚約者・ダグはクリスティーナを、「世間の価値観を馬鹿にして自分を特別だと思い込み、自分探しに忙しいアーティスト気取りの女」と喝破する。映画はそんなクリスティーナの薄っぺらな生き方を肯定するかのごとく彼女を突っ走らせるが、そこには共感できる要素は何もなかった。彼女たちに関わるフアンも女ナシでは生きられない男だが、ヘタな理論武装をしない分、嫌悪感は少ない。こちらはむしろ老いてなお女への興味が尽きないウディ・アレン自身の投影もしくは願望なのだろう。
ただひとりマリアだけは、感情というより激情のおもむくままに生きる女であるにも関わらず、それが芸術的才能の発露であるという一点において許される。好きになったものは全身全霊で愛する一方で、夫婦喧嘩の末にフアンを刺し、気に入らないことには怒鳴り散らし、挙句の果てにはフアンに口説かれているヴィッキーに発砲する。この起伏の激しい典型的なラテン女をペネロペ・クルスが熱演。彼女の圧倒的な存在感がこの作品を魅力あるものにしていた。
(福本次郎)