自分の余命を知ったとき、人は残りの時間をどう過ごすべきか。残される家族に迷惑をかけないように身辺整理する母親が最期の願いを叶えていく過程で懐かしい思い出がよみがえり、過去と現在が交錯する不思議な体験をする。(40点)
自分の余命を知ったとき、人は残りの時間をどのように過ごすべきか。ここで描かれているのは、やり残したことや叶えられなかった夢を追うのではなく、まだ生きていかなければならない夫や子どもに迷惑をかけないように身の回りを整理していく母親。彼女のただひとつの願いは、新婚時代に過ごした海辺の街の散策だ。懐かしい思い出がよみがえり、過去と現在が交錯するうちに、いつしか不思議な体験をする。しかし、全編宮沢賢治の「永訣の朝」をベースにした童話絵本のような絵作りと台詞回しは子供向けのお芝居のようで、映像には向いていない。
イラストレーターの健大は、不治の病に侵された妻・とし子の一時退院の日に、新婚時代に暮らした街を訪ねる。そこで謎めいた男と出会うが、彼もまた死を間近に控えていた。やがてとし子の病状は悪化、そんな時、健大は花火大会のデザインを依頼される。
細かいカットの切り返しや車窓に映る合成された風景、記憶の中の悪夢など、表現方法はあえて古いスタイルにこだわっている。それがノスタルジックな効果を生むのならともかく、監督の自己満足を見せられている気分にしかならない。さらに、登場人物の口から出るリアリティのない言葉の数々。迫りくる最期を生々しく感じさせないための仕掛けというのは理解できるのだが、まったく心が伝わってこなかった。唯一、とし子が「生きられると信じていることのほうが辛い」と健大に胸のうちを明かすシーンだけが胸を打つ。
とし子は、死後に遺品で家族を困らせないために、持ち物をすべて処分する。少しでも夫に辛い思いをさせないという気遣い。そのあたりの彼女の気持ちをもっと細やかに描けば泣ける作品になったはずだが、心情に踏み込むことはせず、クラムボンの演奏に代弁させるのみ。そして死の3ヵ月後、とし子から「忘れてもいいよ。」という手紙が健大に届く。本当はずっと覚えておいてもらいたい、けれど負担になりたくない、そんなとし子の優しさと少しのわがままが込められた場面だが、このあたりも感情を強調せず、淡々とした描写。最後まで足が宙に浮いたような違和感を覚える映画だった。
(福本次郎)