きっと、星のせいじゃない。 - 青森 学

絶望的な状況なのに希望があるという難しいテーマを上手く扱った佳作(点数 87点)


©2014 TWENTIETH CENTURY FOX

不治の病に冒されたヘイゼル(シャイリーン・ウッドリー)とオーガスタス(アンセル・エルゴート)の若い一組のカップルが残された時間を懸命に生きていくというお話しではあるのだが、 ティーンエイジャー向けの作品だからと言って死生観が幼いと言う訳ではない。
死と向き合う事は年齢の長幼に拘らず、当事者に深い省察をもたらす。
二人はヘイゼルが尊敬する作家に会う為にアムステルダムへ旅立つがそこで訪れるアンネ・フランクの生家で彼女の絶望の中に居ても希望を失わなかった人生に、二人はまた生きることの意味に近づくのである。

この作品はメタファー好きのオーガスタスのように作品自体がメタファーに満ちている。それは絶望と希望はコインの裏表の関係であるという相互依存性の暗喩である。
絶望の中から希望は生まれ、希望の中に絶望が鎌首をもたげる。絶望と希望は車の両輪のように相互に補完しあって進んでいく。
それが人生なのだと映画は伝えている。
アムステルダムの路上で二人が見たストリートミュージシャンが演奏していたのはビバルディの四季だった。これもメタファー好きのオーガスタスには思うところがあったに違いない。私見だがオーガスタスはこの曲に生命の循環を見たのかもしれない。

不治の病といえども悲嘆に暮れて生きていく訳にはいかない。
絶望の淵に沈むとしても、その中ですら何かの慰みを人は求める。
それは安らかな死なのかもしれない。いずれにしてもどのような状況に落ちようとも人は何かに希望を抱かずにはいられない生き物なのだ。だから彼らは死に直面しても希望を捨てない。
それが生きることへの渇望ではなくても、なんらかの魂のサルベージを求めるのだ。
オーガスタスは人の記憶に残ることを望み、ヘイゼルは彼女の介護が終わることで家族の解放を願う。彼らは死ぬことにおいてでも希望を持つ事を止めない。
明るさを失わない二人の理由は絶望を経由した後に得る希望なので、迷いがないし、強い。
人間の真の強さは絶望によって鍛えられた心からのみ生まれるのである。日本に先んじて世界で公開されたこの作品を観て多くの評者が希望を見い出すのは、ヘイゼルとオーガスタスの絶望を超えた真の勇気を見たからなのだ。

人が試される勇気というのは、なにも戦場で武勲を挙げる事だけではない。
誰もが、この世界に生きる人一人残らずが、ヘイゼルやオーガスタスのように真の勇気を試される時がやって来る。人間は死と向き合う事で一個の完成された個体になる。
言い換えれば死で人間は完成するのだ。
しかし、その時期の到来が早過ぎては悲しい。
だが、その成熟を迫られたふたりの恋人達の、時にシニカルで大人びた死生観に笑い共感した。
彼らは生きた証しを墓碑に刻むように懸命にその証拠を残された人生の中に探すのだが、映画の中で引用されるゼノンのパラドクスに象徴されるように日常の中に無数に切り取られる掛け替えのない一瞬が無限に続くことに気付くのである。
彼らはきっと最後にその永遠を見付けたに違いない。

青森 学

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